an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書による検証

牧師・長老・監督の適性(1)

Ⅰテモテ3:1-7 1 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。 2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、 3 酒を…

信仰者の中にあって語る神の霊(3)

マタイ10:20-27 20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 21 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。 22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人…

信仰者の中にあって語る神の霊(2)

マタイ10:17-20 17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。 18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである…

信仰者の中にあって語る神の霊(1)

マタイ10:1-42 1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。 2 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダ…

「忘れられた女」ケトラ(6)このわたしはあなたを忘れない。

士師記6:1-16 1 イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなったので、主は彼らを七年の間ミデアンびとの手にわたされた。 2 ミデアンびとの手はイスラエルに勝った。イスラエルの人々はミデアンびとのゆえに、山にある岩屋と、ほら穴と要害とを自分た…

「忘れられた女」ケトラ(5)そして再び

次にアブラハムのそばめケトラの子孫であるミデアンびとが聖書に登場するのは、イスラエルの民が主なる神の力によってエジプトの奴隷生活から解放され、四十年という歳月の間、荒野を彷徨った果てにやっとヨルダン川東岸にたどり着いたときであった。 民数記…

「忘れられた女」ケトラ(4)モーセ

アブラハムの二人のそばめ、ハガルとケトラの子孫らによって、アブラハムの祝福を継ぐヨセフは父ヤコブから引き離され、エジプトで奴隷として売られた。しかしそれはすべて主なる神の計画によるものであった。そのヨセフを通して、神はヤコブの全家族をエジ…

「忘れられた女」ケトラ(3)

創世記25:1-6 1 アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。 2 彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバクおよびシュワを産んだ。 3 ヨクシャンの子はシバとデダン。デダンの子孫はアシュリびと、レトシびと、レウミびとである。…

「忘れられた女」ケトラ(2)

創世記25:1-8 1 アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。 2 彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバクおよびシュワを産んだ。 3 ヨクシャンの子はシバとデダン。デダンの子孫はアシュリびと、レトシびと、レウミびとである。…

「忘れられた女」ケトラ(1)

創世記25:1-10 1 アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。 2 彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバクおよびシュワを産んだ。 3 ヨクシャンの子はシバとデダン。デダンの子孫はアシュリびと、レトシびと、レウミびとである…

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(5)

天の父から与えられる「良い贈り物」の約束 ルカ11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。 参照: ヤコブ1…

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(4)

聖霊のバプテスマに関して、あまり重視されていないが非常に重要な点がある。聖霊のバプテスマと、キリストの体である教会との関係である。実際、聖霊のバプテスマは個人的な経験以上のものであり、教会のいのちを革新する「新陳代謝」的働きをする。ゆえに…

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(3)

私が聖霊のバプテスマを受けることを必死で祈り求めていた時期は、使徒パウロの二つの告白「わたしは自分のしていることが、わからない。」「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ローマ7:15,24)によって、表現できる。私は熱心に求め…

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(2)

もし私が聖霊のバプテスマに関して聖書にどこに書かれているか熟知していたとしても、実際の生活の中で聖霊のバプテスマが何をもたらすかを見ていなかったら、私の探求心はそれほど覚醒されていなかったかもしれない。しかし、現実に私は多くの兄弟姉妹が聖…

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(1)

キリストのある一人の姉妹から、聖霊のバプテスマについて意見を聞かれたので、シリーズで記事にしてみたい。ただ実際に書き始めようとすると、クリアしなければいけない個人的な葛藤が多くあるのに改めて気づかされた。それは私が聖霊のバプテスマの真理を…

「聖書は異邦人のためにではない」という意見の検証

聖書は異邦人のためではない - 聖書とユダヤ人 予め明記しておくが、私が他の人のブログで主張されているテーマを論証するときは、論者個人に対する批判が目的ではなく、あくまでテーマ自身を対象にしたものである。また私自身の目的も、中世の異端裁判の真…

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。

ヨハネ3:16-21 16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われ…

神が罪びとの心に授けられた「願い」と「思い」

創世記3:4-6;22 4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目に…

「神の預言の成就」と「個人の責任」について

マタイ18:7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 マタイ26:24-25 24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るそ…

「時」を知り、「至上の権威」に従う

ローマ13:1-14 1 すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。 2 したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく…

キリスト者にとっての敵とは

キリスト者が力や武器の行使によって戦わなければならない「敵」とは誰のことか。『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』と命じた主イエス・キリストの命令の背いてまで、闘い、傷つけ、死に追いやることを容認しなければいけないほどの「悪い者」とは一体誰…

真に恵まれている人々

12月8日は、カトリック教会の教義による『無原罪懐胎』を祝う日として、イタリアでは公休日である。今年は、「聖年」の始まりの儀式としてサン・ピエトロ大聖堂の「聖門」を開ける儀式が、この日にあると聞いている。 しかし、信仰の基礎を聖書の啓示のみ…

誕生日に関する考察

ブラジルの南部に住む信仰者から、彼女が家族で通っている教会の情報を時々受ける。千人以上の会員がいる大きな教会で、毎週のように洗礼を受ける人がいるという。 その教会は毎年、教会の開拓者であり、現役の牧師の誕生日に感謝礼拝を行うということで、以…

剣をとる者はみな、剣で滅びる。

マタイ26:51-54 51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。 52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅…

福音書は「贖罪」を語っていないのか(5)追記その2

イエス・キリストは罪びとを救うためにこの世に来られ、十字架の上で命を贖いの代価として捧げた。 ルカ19:10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。 彼は神と人との唯一の仲介者として、そして救い主として、自分なしでは誰も救…

福音書は「贖罪」を語っていないのか(4)追記

これから追記として書く内容は、大局的に見れば(1)(2)(3)で扱った内容よりもさらに重要な要素である。その要素とは、イエス・キリストと使徒パウロの本質的な違いである。 イエス・キリストの宣教における贖罪論を否定する人々は、贖罪論を書簡の中…

福音書は「贖罪」を語っていないのか(3)

6.使徒ペテロの証言:福音書が「贖罪」について語っておらず、イエス・キリストの教えと使徒パウロの教えは矛盾するという説について検証しているが、それが聖書の啓示とは異なることを(1)と(2)において考察した。特に(2)において、使徒パウロが…

福音書は「贖罪」を語っていないのか(2)

4.洗礼者ヨハネの証言: ヨハネ1:29;36 29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。 「主の道を備える」という明…

福音書は「贖罪」を語っていないのか(1)

このブログに寄せられたコメントだけでなく、ブログ村などにおいても、「福音書には【贖罪】という概念がなく、イエスはそれを教えていない。贖罪論を取り入れたのはパウロである。」という説を説く人々がいる。そのような観点から、本来聖書には存在しない…

「契約書」「遺言」としての聖書

マタイ26:26-28 26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 28…