an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(1)

 キリストのある一人の姉妹から、聖霊のバプテスマについて意見を聞かれたので、シリーズで記事にしてみたい。ただ実際に書き始めようとすると、クリアしなければいけない個人的な葛藤が多くあるのに改めて気づかされた。それは私が聖霊のバプテスマの真理を信じていない、とか、個人的に経験していない、という種類のものではなく、私が近年経験した言い表し難い苦しみ(少なくとも私にとっては誇大表現ではない)にとても深く関連しているからである。

 だから、今回はこのテーマに関する純粋な教義の提示というよりも、私の証を交えた省察という形で記事を書ければと思う。おそらく奥歯に物が挟まったような物言いでしか書けない部分も出てくると思うが、それは神の約束が確かにではないということでは決してなく、私自身が過去に起きたことを未だに消化しきれていない、もしくは引き出しに整理し終わっていない要素があると思って、寛容な心で読んでいただければと願う。

 まず第一に、私が新生体験した教会が、所謂ペンテコステ派の中でも大きな主流に属し、しかもその中でもおそらく最も保守的な聖書主義信仰に根差すイタリアの教団に属していた関係で、私は霊的探求のスタートから、聖霊のバプテスマや聖霊の賜物とその実の顕現が福音の教えとして公に語られ、また個人的に体験することとして受け入れられていた環境に育った。この点において、私は主なる神の導きに心から感謝している。実際、礼拝の中や、伝道活動の中、また兄弟姉妹との普段の交わりの中でも、それらの聖霊の働きはごく日常的に顕現していたのである。

 何よりも聖書の啓示が、私に聖霊のバプテスマを求めるべきであることを強く迫っていた。例えば、以下の聖句は文字通り、私を聖霊のバプテスマを求める祈りへと強く押し出していた。聖霊の賜物の働きが使徒の時代以降には「終焉した」と説く人々や、そのような内容の本を読んだりしても、この三十九節の約束が、「主なる神の召しに与るすべての者」「遠くの者一同」の中に含まれている自分にも与えられる、ということに疑う余地はなかった。

使徒2:38-39

38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

 私がまだ教会に通い始める前、家で一人で聖書を読んでいた時期からすでに、聖書の啓示が真理であることを確信していたし、多くの聖句を暗唱できるほど、また説教の中で引用された聖句が聖書の中でどこにあるかすぐ開けるようになるほど、毎日むさぼるように聖書を読んでいた。多くの罪を告白し、放棄し、主イエスの十字架の死に感謝する証もすでにしていた。教会の多くの人が、浪人のような容貌の長髪の日本人がみるみる変化し、証や奉仕を熱心にするようになっていくの実際に見て、神に感謝していた。

 私は主なる神を信じていたし、聖書を心から愛していたし、様々な奇蹟的出来事を個人的に経験さえもしていた。誰かに「あなたは救いを受けましたか」と聞かれたら、躊躇なく「はい、私は救いを受けました」と答えていたし、周りの人にも全く遠慮なく同じ質問をするほどであった。

 聖書の有名なエピソードで例えるとしたら、私は確かに「エジプトの奴隷生活から導き出されていた」し、「紅海を歩いて渡る」ような勝利の体験もして、主なる神が奇蹟的に備えてくださる「マナ」を日々味わっていた。しかし、何かが足りない。まるでイスラエルの民が荒野を四十年間彷徨ったように、喜びと失望の間を繰り返し彷徨い、私は弱り、何より自分にうんざりしていた。私は「エジプトを出ていた」けれど、まだ「約束の地に入っていなかった」のである。

 当時の不足感は、以下の聖句が見事に体現していた。

使徒8:16

それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。 

 「彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けただけで、聖霊はまだ誰にも下っていなかった。For as yet he was fallen upon none of them: only they were baptized in the name of the Lord Jesus.」。私は確かに、「ただ」主イエスを信じて、水のバプテスマを受けた「だけ」であった。時に聖霊の導きや語りを経験していても、「聖霊が下る」「聖霊に満たされる」「上からの力を受ける」という力強い状態とは程遠い生き方をしていた。実際、聖霊のバプテスマをまだ受けていなかったのである。

使徒1:8

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 

 

(2)へ続く