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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。

ヨハネ3:16-21

16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。

21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 

  「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」

 何という啓示だろうか。この神聖で峻厳な聖句について、チャカチャカと音を立てながらキーボードを打っていることが、ひどく敬意に欠けた行為に思えてくる。

 「信じない者は、すでに裁かれている。」 御子イエス・キリストの十字架の死刑によって、神の罪に対する容赦ない裁きが執行された。御子は全ての人を代表し、全ての人の罪の責任を負って、十字架の上で死を味わい、そして葬られた。それは全ての人に対する霊的な裁きであった。

Ⅱコリント5:14

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。

わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 

 御子がこの世からも、御使いたちからも、また父なる神からも切り離され、死の中に葬られたように、御子のうちに全ての人が死んだのである。そしてそれは字義通り、「すべてのひと」である。その葬られたキリストにおいて、人種や民族、文化、宗教、思想、歴史、老若男女、社会的地位などの違いは消え、まさしく「人間と呼ばれる全てのひと」が御子イエス・キリストの死の中で死んだのである。

 しかし、御子は死の闇の中から、聖霊の力によって復活した。そしてそれを信じる者は誰でも、復活した御子のうちにあって、新しい命、二度と神の裁きを受けることのない永遠の命を得るのである。

Ⅱコリント5:15-17

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 

  それゆえ、神の全ての人に対する願いは、裁きではなく、救いである。「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。

 しかしそれと同時に、その御子イエスの死と復活を信じない者は、御子の死によって「すでに裁かれている」のである。「信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

 この霊的現実は、主なる神が天地創造の前から決定していたことであり、そして二千年前に実現したことである。誰もそれを変えることはできない。

 誰も私がまるで部外者のように、この真理について書いていると思わないでほしい。また雲の上から悟った者のように語っていると考えないでほしい。ただ今は知っている。主イエス・キリストを信じる以前の自分のすべてが、「キリストの死の裁き」の中にあったことを。私のあらゆる選択も考えも言動も、善行や罪過、成功や失敗、自由だと思っていたことも不自由だと感じてことも、私の存在のすべてが「キリストの死の裁き」の中に葬られたことを。そしてキリストを信じている今の私は、復活したキリストの永遠の命の中に生きていることも。

ガラテヤ2:19-20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

「神のひとり子の名を信じることをしない

「光よりもやみの方を愛した

「光を憎む

「光にこようとはしない

 これらの表現には、人間の意志とそれに伴う選択を示している。そして私たちが「闇」の中で行うあらゆる選択は、結局私たちを「闇」の外へ解放する力をもっておらず、私たちに真の自由を与えるものではない。

 しかし、御子はその復活によって、私たちが闇から光の中へ行くことができる全く新しい選択の可能性を与えてくださったのである。

コロサイ1:13-14

13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。

14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。 

 

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