an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

初代教会における書簡の権威(3)

(一部抜粋)

新約聖書を読む限りにおいて、論争を裁定したり、教理事項を決定する上で信者は聖書のみを参照するようには教示されていないと思います。(その理由の一つは、初代教会が存在していた時、27巻の新約聖書はまだ編纂されていなかったか、完成していなかったか、もしくはカノンとして認定されていなかったからです。)

 

新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者たちが、旧約聖書を持ち、使徒たちおよび長老たちのメッセージに対する証人としての召しを受けつつ、(イエスの御名と主の権威によって、つなぎそして解くべく)一同に会している図です(マタイ18:18-19;使徒15:6-29)。そしてそういった教会的権威が消滅し、最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになったということを指摘している箇所は聖書のどこにも見い出されません。

 そもそも「教会的権威」とは何であろうか。【ἐκκλησία エクレシア】つまり

「イエス・キリストの御名によって集まっているニ人または三人以上の集まり」が、確約されているイエス・キリストの臨在において、「全てのことを確かめ」、「つないだり、解いたりする」、その裁定の権威とは何によるものだろうか。

マタイ18:15-20

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。 

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 

17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 

18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 

19  また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 

20  ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。  

 ちなみに16節の「二人または三人」は確証すべきことの「証人」であって、必ずしも「教会」のことを指していないのは、次節に「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい」と次の段階として区別してあることで理解できる。つまり「教会」は「イエス・キリストの御名によって集まる」という条件による二人または三人の信仰者の集まり、ということがわかる。

 この「イエス・キリストの御名によって」とは、キリストの絶対的主権を表している。実際、教会は主イエス・キリストのものであり、彼自身がその教会を建て上げると宣言している。

マタイ16:13-19

13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。 

14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。 

15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 

16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 

17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。

18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 

19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

 この聖句を根拠に「主イエスが使徒ペテロを教会における最高権威者として任命した」と解釈する見解があるが、以下の論点が反駁している。

  • 使徒ペテロが、エルサレム初代教会で最高権威を持っていたという証拠はない。むしろ彼は他の使徒たちからサマリヤへ「遣わされて」いた。

使徒8:14

エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。 

  • 使徒パウロは、主イエスが使徒ペテロのことを「割礼の者への使徒の務めにつかせた」と認め、自分自身の「異邦人に遣わされた使徒」に立てられたことと同列に扱った。つまり使徒ペテロはユダヤ人や異邦人による全ての信仰者の集まりの上に立つ権威者として認識されていなかった。

ガラテヤ2:7-8

7 それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、 

8 (というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、 

  • 使徒パウロはエルサレム教会の「柱として重んじられている」人物として、ペテロの他にヤコブとヨハネも記している。つまりペテロに最高指導者としての立場が与えられていなかったことを示している。

ガラテヤ2:9

かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。 

  • 「あなたがたは使徒(複数形)と預言者(複数形)という土台の上に建てられており」と記されているので、使徒ペテロだけが土台ではあり得えない。

エペソ2:19-22

19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 

20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 

21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 

22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 

  • ペテロに「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と宣言した御子は、同様に他の弟子たちにも同じ権威を与えた。

マタイ18:18

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。

ヨハネ20:22-23

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 

23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

  • 御子イエスが「あなたはさいわいである」と言ったのは、使徒ペテロ個人の徳のゆえではなく、天の父なる神が啓示するままに「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白したからである。もしペテロ自身の功徳によるものであったら、「血肉ではなく」とは特記しなかっただろう。またペテロの告白の直後に、「神のことを思わず、人のことを思っている」と戒められたエピソードは、御子がペテロのことを使徒という役割によってではなく、「霊的な思い」を持っているか、それとも「肉的な思い」でいるかで判断し、導いていたことがわかる。

マタイ16:21-

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 

22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 

23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 

 このように可視的教会も普遍的・霊的教会も、その権威は御子イエス・キリストのものである。そしてその絶対的権威に恭順する時のみ、その力と共に働くことができるのである。

Ⅱコリント13:8

わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。 

ヨハネ17:2

あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。 

Ⅰコリント5:4

(口語訳)

すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、 

(新改訳)

あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって

 このように教会の権威の所在について考える時、冒頭記事の主張にある「教会的権威が消滅」し、「最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになった」という設定自体、既存の宗教組織の権威の立場から見た偏見でしかないことがわかる。

 主イエス・キリストの御名によって集う信仰者の集まりの権威は、その規模の大きさに関係なく、「私は、私の教会を建てる」と宣言した主イエス・キリストに属するものである。そして一つの地域教会(それが個人の家庭で二、三人が集う集会だろうと、迫害の目を逃れて山の中で内密に集うものだろうと、大都市の建造物の中で集うものだろうと)がその御子の霊的権威を適用できるには、ただ御子の命じた言葉を守る、その恭順の中においてのみである。

マタイ7:24-27

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 

25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 

26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 

27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 

ヨハネ14:21-24

21 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。 

22 イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。 

23 イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。

24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。  

 実際、小アジアのいくつかの教会は、御子の忠告の言葉に従って悔い改めなければ、「あなたの燭台をその場所から取りのけよう」「あなたを口から吐き出そう」と警告されていたのである。

黙示録2:1-7

1 エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。 

2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 

3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。 

4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 

5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。 

6 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。 

7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。 

黙示録3:14-22

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。 

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。 

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 

21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。 

22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。 

 地上の如何なる組織も、それがたとえ「キリスト」「福音」「普遍」「正統」という表現を含む名前を持っていたとしても、主イエス・キリストとその言葉の権威の下に服従していなければ、何の霊的権威ももたず、神が喜ぶ実を結ぶことはない。

へブル6:4-8

4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 

5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 

6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 

7 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 

8 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。 

 反対に私達がたとえ何の地上的権威も力の持っていない小さな群れであったとしても、書き記された御言葉を手に、全ての権威をもつ栄光のキリストの証人として、全世界に福音を伝え続けよう。それが恵みによって救われた私達の、地上における唯一の使命なのだから。

マタイ28:18-20

18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 

ルカ12:32

恐れるな、小さい群れよ。

御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。