an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

主イエス・キリストを知る知識

Ⅱペテロ1:1-15

1 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。 

2 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。 

4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。 

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、 

6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、 

7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。

8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。 

9 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。 

10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。 

11 こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。 

12 それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。 

13 わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。 

14 それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。 

15 わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。 

 このペテロの手紙の冒頭部分には、聖書的な意味での知識に関する明確な教えが織り込まれている。その知識の本質やもたらす結果、またその知識を受ける側の役割などである。

  1. 知識とは神と主イエスを知ることである(2-3節):それは「神と主イエスに関する教義的知識の蓄積」以上に、「神と主イエスとの個人的な交わりに基づく知識」である。2節と3節そして8節において「知識」と和訳されている原語は【ἐπίγνωσις epignōsis】で、「承認、認定、認知、知識」という意味で、HELPS Word-studiesによると、「関係における知識、経験的知識」ある(Ⅰヨハネ1:1-3参照)。そして5節における「知識」は【γνῶσις gnōsis】で、行為としての「知ること」が直義である。
  2. 知識が神の様々な賜物をもたらす:恵みと平安(2節);いのちと信心とにかかわるすべてのこと(3節)
  3. 知識は成長のプロセスの一段階である:「徳には知識を、 知識には自制を」(5-6節 新改訳)「自制」「節制」ということは、「与えられた知識」が信仰者の自我に積極的に働きかけ、「ブレーキをかけたり、アクセルを踏んだり、ハンドルを切ったり」するということである。自制は御霊の実でもあるからである(ガラテヤ5:22-23参照)。また「あなたがたは、力の限りをつくして...加えなさい」とあるから、信仰者はその聖霊による知識の働きに対して能動的である。
  4. 主イエス・キリストを知る知識は私達に働きかけ、実を結ぶ(8節):信じる者の意志に働きかけ、御心を行うことの熱意を与え、また神が喜ぶ実をもたらす。
  5. 信仰者はそれを知り、真理として持っているが、常に思い起こす必要がある(10、12、15節):知識を持っていること自体に安泰するのではなく、自分が何を受けたかを常に再確認する必要がある。

 この知識に基づく成長の必要性は、この手紙の締めくくりの言葉と、反対にそのような自覚のない場合の恐ろしい結果を示す言葉によって、さらに強調されている。

Ⅱペテロ3:18

そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。 

 ちなみにこちらの「知識」は【γνῶσις gnōsis】である。1章における「プロセスの一つとしての知ること」と「…知ることにおいて、ますます豊かになりなさい」という勧告は繋がっている。

Ⅱペテロ2:20-21

20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。 

 この聖句において「知ること」と和訳されているのは【ἐπίγνωσις epignōsis】で、「この世の汚れからのがれた後」という後に続く節に表れているように、文脈的にも単なる教義的知識というよりは、経験的知識という意味だろう。

 私達のうちで知識自体が目的化されてしまうと、知識の方向性を見失い、「怠る者」「実を結ばない者」「盲人であり、近視の者」「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者」だけでなく、「救われる前の状態よりも悪くなる」、つまり御子イエスの尊き犠牲によって与えられた「恵みと平安」「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」を踏みにじることに繋がってしまいかねないのである。