福音書は「贖罪」を語っていないのか(4)追記
これから追記として書く内容は、大局的に見れば(1)(2)(3)で扱った内容よりもさらに重要な要素である。その要素とは、イエス・キリストと使徒パウロの本質的な違いである。
イエス・キリストの宣教における贖罪論を否定する人々は、贖罪論を書簡の中で啓示した使徒パウロの教えを「パウロ教」と揶揄し、「イエス教」と矛盾するものと批判するが、その主張にはこの本質的な違いに対する視点が欠けている。
この本質的な違いとは、以下の通りである。
- 「神の子であるキリスト」と「被造物である人間パウロ」
- 「唯一の裁き主キリスト」と「裁きを受けるにふさわしい罪びとのかしらパウロ」
- 「救い主キリスト」と「恵みによって救いを受けたパウロ」
- 「聖霊を遣わしたキリスト」と「聖霊を信仰によって受けたパウロ」
- 「主人キリスト」と「キリストの僕パウロ」
- 「パウロを遣わしたキリスト」と「キリストに遣わされた証人パウロ」
その性質上、また立場上の違いは圧倒的である。無からすべてのものを創った創造主は、被造物と同じ存在だろうか。法廷において裁判官と被告は同じ立場だろうか。雇用人は主人と同じように振舞えるだろうか。
ヨハネ13:16
よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
「自分の罪や過ちに対して全く無力な罪びと」と「全人類の罪のために全てを捧げた神の子」が同じ立場から話すことができるだろうか。「自分自身では自分の魂を贖うことができない罪びと」と「その罪びとの救いのために自ら贖いの代価となった神の子」とどうして同じ権利をもち得ようか。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ7:24)と叫ぶ罪びとと、「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ43:11)と宣言する方が、どうして同じ立場で語れようか。
詩篇49:7-9
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価を神に払うことはできない。
とこしえに生きながらえて、墓を見ないためにそのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
マタイ16:26
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
マルコ10:45
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
神はその絶大な憐みにより、自ら遜り、罪びとの中へと降りてきてくださった。見ることも触れることもできない神の「かたち」と「ことば」が、イエスとなり肉体を宿り、父なる神を罪びとへ啓示した。そして自ら贖いの代価となって十字架の上で命を捧げてくださった。
その贖いのわざにより、神は信じるものに聖霊を遣わし、「キリストの証人」としてこの世に遣わしたのである。それは実際に滅びから贖われた罪びととして、「神の贖いのわざ」を身をもって証するためである。
使徒1:6-8
6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
弟子たちは「イスラエルの復興の時期」を知りたくて復活したイエスに質問した。しかし主イエスは彼らをご自身のことを証する「キリストの証人」として任命したのである。
使徒パウロも、もし彼が望むならいくらでも知恵を使って人々の好奇心を満たすこともできただろう。律法の解釈に関して人々を感嘆させることも問題なくできたはずである。しかし、彼は「恵みを受けた罪びとのかしら」「キリストの証人」「キリストのしもべ」「キリストの使徒(遣わされた者という意味)」として、自分の言うべきこと、やるべきこと、そして自分の立場を明確にわきまえていたのである。
Ⅰコリント1:21-24
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
Ⅰコリント2:1-2
1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
Ⅱコリント4:1-5
1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
3 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
Ⅰテモテ1:12-17
12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。
13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。
14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。
17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。
確かにキリストの贖いを経験していない者にとっては、贖いを経験した信仰者が証することは、ただの「作り話」や「妄想」でしかないだろう。自分の罪を認めず、ありもしない自分の義に執着するがゆえ、罪の赦しを体験していないから、裁き主なる神も、恵みによってその罪を赦すキリストも、空虚な言葉の羅列としか思えないことは、誰でも経験することである。そして苛立たしい思いを信仰者のぶつけることも、人間共通の性質である。しかし「恵みによって罪を赦された罪びと」は、「罪を赦すために代価となったキリスト」ではないゆえ、問題を本質的に解決できない。
解決策は非常にシンプルで、しかも唯一である。自ら神の前に悔い改め、罪を告白し、イエス・キリストの十字架の贖いを信仰によって受け入れればいいのである。そうすれば、贖いについての空虚な主張も混乱も、朝もやのように消えてなくなるだろう。