「忘れられた女」ケトラ(2)
創世記25:1-8
1 アブラハムは再び妻をめとった。名をケトラという。
2 彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバクおよびシュワを産んだ。
3 ヨクシャンの子はシバとデダン。デダンの子孫はアシュリびと、レトシびと、レウミびとである。
4 ミデアンの子孫はエパ、エペル、ヘノク、アビダ、エルダアであって、これらは皆ケトラの子孫であった。
5 アブラハムはその所有をことごとくイサクに与えた。
6 またそのそばめたちの子らにもアブラハムは物を与え、なお生きている間に彼らをその子イサクから離して、東の方、東の国に移らせた。
7 アブラハムの生きながらえた年は百七十五年である。
8 アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。
「アブラハムは再び妻をめとった。」
「再び」と和訳されている原語「יסף yâsaph」は、かなり広義な単語であり、「加える、付け足す、増す、継続する、上回る、続いてする」などの意味がある。文脈によって、「同じ動作を繰り返す」というニュアンスもあれば、「一つのことにもう一つのことを追加する」というニュアンスもある。
創世記8:10
それから七日待って再びはとを箱舟から放った。
創世記18:29アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
この一単語だけをとって、「アブラハムが正妻の存命中にもう一人の女性をめとった」とする根拠にすることはできない。
また「妻」と和訳されている原語も、文脈によって「女」とも訳されている単語である。
創世記24:4-5
4 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。
5 しもべは彼に言った、「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。
しかしケトラが創世記25:6や歴代誌上1:32において「そばめ」と呼ばれているので、妻としての地位は与えられなかったようである。
創世記25:6
またそのそばめたちの子らにもアブラハムは物を与え、なお生きている間に彼らをその子イサクから離して、東の方、東の国に移らせた。
歴代誌上1:32
アブラハムのそばめケトラの子孫は次のとおりである。彼女はジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデアン、イシバク、シュワを産んだ。ヨクシャンの子らはシバとデダンである。
また同じ「そばめ」であったハガルと比べても、その子の地位において、同じレベルであるとは認められていないかったようである。例えば、ハガルの子イシマエルはケトラの6人の子たちと同様に、アブラハムの唯一の跡取りであるイサクから遠く引き離されたが、アブラハムの葬式の際には、イシマエルだけイサクと共に参加しているのである。
創世記25:6-10
6 またそのそばめたちの子らにもアブラハムは物を与え、なお生きている間に彼らをその子イサクから離して、東の方、東の国に移らせた。
7 アブラハムの生きながらえた年は百七十五年である。
8 アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。
9 その子イサクとイシマエルは彼をヘテびとゾハルの子エフロンの畑にあるマクペラのほら穴に葬った。これはマムレの向かいにあり、
10 アブラハムがヘテの人々から、買い取った畑であって、そこにアブラハムとその妻サラが葬られた。
ケトラがいつアブラハムのそばめとなったかについては、様々な解釈がある。Clark’s CommentaryやEllicott's Commentaryの注釈者はアブラハムの正妻サラが生きている間にすでにそばめとして、アブラハムの子供を産んでいた、と解釈している。CalvinやWesley、Scofield、Matthew Henry、MacArtherなどは、サラの死後、妻として迎え入れられたと解釈している。Cambrige Bibleなど注釈は、断定することはできないと主張している。
個人的には、正妻サラの死後にサラのつかえ女であったケトラがアブラハムに娶られたが、神の約束によって唯一の跡取りはイサクであったことを知っていたアブラハムは、ケトラをサラに代わる後妻として認めることをしなかったと解釈している。
何よりも妻サラが経験したそばめハガルとの苦い経験を考慮すると、サラが存命中に夫にもう一人のそばめを与え、子供を産ませていたとは考えにくい。
サラは不妊であったので、主なる神の約束を自分の力で実現しようとし、自分の「つかえ女」のハガルというエジプトの女性を、夫に与えるという決断した。
創世記16:1-4
1 アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。
2 サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。
3 アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。
4 彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。
しかしそのハガルは、よりによって子供の産めない女主人を見下すようになったのである。そしてそのことで夫アブラハムをなじった(目の前に情景が浮かび、声まで聞こえてくるのはなぜだろう・・・)。
創世記16:5-6
5 そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下さげます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。
6 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。
ハガルは耐えられなくなって、シュルの荒野へ自ら逃亡したが、その荒野の泉のほとりにおいて、主なる神の使いに出会い、サラのもとに帰るように命じられ、それに従った。
創世記16:9
主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。
その後、ハガルはアブラハムの子イシマエルを産み、そして14年後、サラも主なる神の奇蹟によってイサクを産んだ。アブラハムが100歳、サラが90歳の時であった。
神の御心は明らかであった。主なる神はハガルにではなくサラに「国々の民の母」としての祝福を約束し、イシマエルとではなく、イサクと永遠の契約を立てる約束をしたのである。イシマエルには契約のしるしとして割礼をするように命じたにも関わらず、である。
創世記17:15-21
15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。
16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。
18 そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。
19 神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。
20 またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。
21 しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。
そして神の約束通り産まれたイサクが乳離れした日の祝宴において(当時の習慣では生後24か月)、イシマエルがイサクと「戯れている」(ここで使われている原語は、無邪気な子供の遊びではなく、偶像礼拝や姦淫、殺害など意を含む。同じ単語が使われている出エジプト32:6、創世記39:17、サムエル下2:14を参照)のを見て、サラは夫にハガルとその子イシマエルを追い出すように迫った。
創世記21:8-21
8 さて、おさなごは育って乳離れした。イサクが乳離れした日にアブラハムは盛んなふるまいを設けた。
9 サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、
10 アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。
11 この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。
12 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。
13 しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
14 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
15 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
16 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
17 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
18 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。
20 神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。
21 彼はパランの荒野に住んだ。母は彼のためにエジプトの国から妻を迎えた。
サラの意図は明確である。前回のようにハガルが自分のことを見下したことに傷つき、ハガルをいじめたのとは異なり、今回は自分のプライドではなく、唯一の子イサクがハガルの子イシマエルによって何かしらの危険な影響を受けることを親として恐れたのである。ハガルが耐えきれなくなって自ら逃亡したのとは異なり、ここでサラは実にはっきりと「このはしためとその子を追い出してください」と追放することを要求するほど、イサクがイシマエルと共に成長することに危機感を覚えたのである。
この時、サラはたった一人の2歳になる幼児をもつ、92歳の老齢の女性である。唯一の息子のためなら、自分の命さえを差し出すことも厭わなかっただろう。これから神の約束による唯一の跡継ぎを育て、神の畏れを伝え、あらゆる危険から守っていく責務を負う母親が、再びわざわざ自分の仕え女の中からケトラを選び、「世継ぎとなるべき者でない、はした女の子」を次々と産ませるだろうか。しかもケトラがサラの「仕え女」であるなら、イサクの世話にも関わっていた親密な関係だったわけであり、そのような女を「そばめ」としてアブラハムの子を産ませるために与えるというのは、正妻の心情としては許容できるものではなかったろうし、そこまでする「必要」(跡継ぎはもう与えられていた!)もなかったのではないか。
勿論、人間の心は良識を平気で踏みにじれるほど複雑なものだが、アブラハムにとっては自分の子供であり、それまで父親として愛情を注ぎ育てきたイシマエルを、「イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです」という神の言葉に従って、追放したほど神を畏れていたアブラハムが、上述のような選択をすると推定するのは難しいと思う。
(3)へ続く