an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「契約書」「遺言」としての聖書

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マタイ26:26-28

26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 

28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 

へブル9:15

それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

 御子イエス・キリストは、神と人間の契約の仲保者である。ここで「契約」と和訳されている原語「διαθήκη diathēkē」は、ガラテヤ書やへブル書において「遺言 Testament」と文脈に合わせて訳されている。

ガラテヤ3:15

兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない。

へブル9:16-17

16 いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。

17 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 

 つまり「遺言者(イエス・キリスト)」が、ローマ総督ピラトの下で十字架の死を遂げたとき、その御子の血によって死は証明され、「神の遺言=契約」は有効となり、その遺言の約束である「罪の赦し」と「神の国の継承」は、「相続人」である信仰者に与えられたのである。

 このような「契約」「遺言」という性質を考えると、相続人が勝手に遺言の内容を書き換えることはできないし、契約を結んだ者は契約書の内容を勝手に削除したり、自分の都合の良いように変更することはできないことは、誰でも理解できることである。

 「人間の遺言でさえ」そうならば、ましてや契約者が神自身の場合、どうして御子の尊き血によって結ばれた契約の書である聖書を自分勝手に削除したり、変更したりすることが許されようか。しかし実に多くの者たちが、「契約書」の内容にケチをつけ、「契約の約束」を侮蔑し、自分勝手に変更を加えようとする。

 聖書の中には、その言葉に付け加えたり、削除したりする行為に関して、何度も警告がなされている。

申命記4:2

わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

申命記12:32

あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。

箴言30:5-6

5 神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。 

6 その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。 

黙示録22:18-19

18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。