「忘れられた女」ケトラ(4)モーセ
アブラハムの二人のそばめ、ハガルとケトラの子孫らによって、アブラハムの祝福を継ぐヨセフは父ヤコブから引き離され、エジプトで奴隷として売られた。しかしそれはすべて主なる神の計画によるものであった。そのヨセフを通して、神はヤコブの全家族をエジプトへ導き、飢饉から守ったのである。
およそ四百年の歳月が経ち、ヤコブの十二部族はいつのまにかエジプトの奴隷に成り下がってしまっていた。その苦役に喘いでいる民を救い出すために、主なる神は一人のレビ族の男を選び出し、不思議な導きを通して、エジプトの王パロの娘の子として成長させ、ご自分の民が再び約束の地に連れ戻す計画のために彼を準備していた。
出エジプト2:11-22
11 モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、
12 左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。
13 次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互に争っているのを見、悪い方の男に言った、「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」。
14 彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。
15 パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうとした。しかしモーセはパロの前をのがれて、ミデヤンの地に行き、井戸のかたわらに座していた。
16 さて、ミデヤンの祭司に七人の娘があった。彼女たちはきて水をくみ、水槽にみたして父の羊の群れに飲ませようとしたが、
17 羊飼たちがきて彼女らを追い払ったので、モーセは立ち上がって彼女たちを助け、その羊の群れに水を飲ませた。
18 彼女たちが父リウエルのところに帰った時、父は言った、「きょうは、どうして、こんなに早く帰ってきたのか」。
19 彼女たちは言った、「ひとりのエジプトびとが、わたしたちを羊飼たちの手から助け出し、そのうえ、水をたくさんくんで、羊の群れに飲ませてくれたのです」。
20 彼は娘たちに言った、「そのかたはどこにおられるか。なぜ、そのかたをおいてきたのか。呼んできて、食事をさしあげなさい」。
21 モーセがこの人と共におることを好んだので、彼は娘のチッポラを妻としてモーセに与えた。
22 彼女が男の子を産んだので、モーセはその名をゲルショムと名づけた。「わたしは外国に寄留者となっている」と言ったからである。
エジプトの最高権威者の娘の子としてあらゆるものをもっていたモーセは、一人の人殺しとして、同胞からも拒否され、パロからは命を追われ、アブラハムのそばめケトラの子孫が移住した土地ミデアンへ身を隠すことになった。
そこでミデアンの祭司エテロ(別名リウエル:ヘブライ語で「神の友」という意味)の七人の娘たちの一人チッポラと出会い、やがて結婚することになる。何と不思議な導きだろうか。四十年後イスラエルの民の指導者となる一人の男が、自分の兄弟姉妹から引き離され、荒野を彷徨った挙句、アブラハムのそばめケトラの子孫ミデアンの祭司の娘と結婚することになるとは。
しかもこの祭司エテロは、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と同じ、主なる神に仕えていたようである。
出エジプト18:17-24
17 モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。
18 あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。
19 今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。
20 あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
21 また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。
22 平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。
23 あなたが、もしこの事を行い、神もまたあなたに命じられるならば、あなたは耐えることができ、この民もまた、みな安んじてその所に帰ることができよう」。
24 モーセはしゅうとの言葉に従い、すべて言われたようにした。
聖書には明記されていないが、このケトラの子孫であるミデアンの祭司エテロの知恵と信仰は、同じアブラハムを父に持つのにそばめの子として約束の地から引き離されたにも関わらず、アブラハムと同じ神を信じる信仰が、ケトラの子孫の間で代々伝えられていたことを示していないだろうか。もちろんケトラの子孫の中にも、ヨセフを奴隷として売り飛ばしたミデアンの商人のように、神を畏れない人々もいた。いや、むしろエテロのような信仰者は、いつの時代にあっても少数派である。それでも主なる神は、「忘れられたそばめ」ケトラの子孫の中からも、ご自身に礼拝を捧げる者を召しておられたのである。
モーセはその祭司エテロのもとで、四十年間羊飼いとしてエテロに仕えた。彼にとってその荒野の四十年間は、無為無策な日々としてただ過ぎ去っていくように思えたかもしれない。彼が自分の長子に与えた名前ゲルショム(「わたしは外国に寄留者となっている」)から想像すると、モーセはその土地においては重要な家族の一員となり、自分の家庭さえ与えられ、毎日の仕事さえ持っていたが、「何かよりどころを失ったよそ者」という意識と共に、「いるべきところにおらず、やるべきことをやっていない憂い」を持っていたのではないだろうか。
しかし主なる神は、モーセを通して何をしようとしていたか、完全に知っておられたのである。
このエピソードは、私たちにとって大きな教訓である。多くの場合、私たちはこの時期のモーセのように、過去の失敗から逃げ、人並の生活領域を築いているのに「よそ者」で、「いるべきところにおらず、やるべきことをやっていない憂い」を心に隠しもっている。その他人には見えない慢性的な憂いを、身近にある「そばめケトラの子孫」を見つけ出し、偏見によって卑下することによって解消し、解決した気分になったりする。「彼は○○人だから」「彼女はxx教だから」「あの教会は△派だから」といった具合に、自分を「正妻の子孫」に仕立てて、「そばめの子孫」をまとめて卑下する。だが主なる神は、その私たちが見下す「そばめの子孫」の中にも、ご自身の栄光を顕すことができる方である。
(5)へ続く