もし私が聖霊のバプテスマに関して聖書にどこに書かれているか熟知していたとしても、実際の生活の中で聖霊のバプテスマが何をもたらすかを見ていなかったら、私の探求心はそれほど覚醒されていなかったかもしれない。しかし、現実に私は多くの兄弟姉妹が聖霊のバプテスマを受けることによって、非常に大胆にキリストを証しするようになったり、超自然的な導きで生きているのをこの目でみていたので、自然にその賜物を求めたのである。
その時期にはすでに、私の中でもある程度の霊的な直感のようなものが育っていて、何が純粋な聖霊の顕現で、何が人為的なものか、大まかにだが判断できるようになっていた。例えばその時期、イタリアなどでもベニー・ヒンなどの影響がかなりあり、また「聖霊のバプテスマの受け方」などという「マニュアル的な教え」(例えば、祈りの中で適当に口から音を出させ、異言を話しているかのように暗示させるような教え)が出回っていたが、主なる神はそのような誘惑からも守ってくださっていた。
私は周りにいる霊的に実を結んでいる兄弟姉妹のように、純粋に主なる神からの賜物を熱望し、祈り求めていた。人為的な方法など存在せず、ただ「聖霊によってバプテスマする方」に求めるしかないと聖書によって教えられていたからである。
マタイ3:11
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
マルコ1:6-8
6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
7 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。
8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」
ルカ3:16
そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
ヨハネ1:32-34
32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
洗礼者ヨハネ自身が、ヨルダン川の水で集まった人々にバプテスマを授けていたその行為と比較して、御子イエスが聖霊によってバプテスマを授けると教えていたという啓示は、私の霊的探究を正しい方向に修正してくれたと思う。たとえ牧師や宣教師が洗礼者ヨハネのように偉大な神の器だとしても、また特定の場所で開かれる集会がどれほど祝福されたものであったとしても、聖霊のバプテスマを授けてくださるのは、主イエス・キリストだけであるという確信である。
また「聖霊に満たされた状態」が一体どういうものか、「どこ」にあるか、という自問も聖書の啓示によって、それが「キリストのうちに In Christ」ある、彼以外のところにはない、という真理も私の探究に明確さを与えてくれた。
ヨハネ1:14
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネ3:34-35
34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
ヨハネ10:30
わたしと父とは一つである。
コロサイ1:19
なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
コロサイ2:2-4;9-10a
2 それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。
3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。
9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
10a そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。
つまり御子と父なる神が完全に一つであり、御子のうちにすべての神性が満ち満ちているならば、聖霊の満たしも「御子のうち」にあり、しかも信仰によって私はもうすでに「キリストのうちにある」という理解である。
ただ、その偉大な真理をそれまで以上に理解しても、心はどう動けばわからなくて、呆然としている状態であった。まさにその心の無力において、聖霊はそれまで意識していなかった私の恐ろしい罪深さに光を当ててくださったのである。
(3)に続く