an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て」の解釈(2)

 以下の添付ツイートの内容に関して、再度検証する機会が与えられたので、共有してみたい。

 論点は「神の子ら(Sons of God)…常に複数形で『御使い』を指す。聖なる天使か堕天使かは、文脈で判断。」という見解、特に「常に複数形で『御使い』を指す。」という部分である。

 前置きとして、ここで主張者は「堕天使」という「聖書には使われていない単語」(日本語の新改訳第三版、新改訳2017、口語訳、新共同訳、文語訳全てにおいて使用されていない表現)を使って自論を主張しているが、通常「三位一体」「義認」「聖化」「携挙」など聖書で使われていない表現を使っても「聖書解釈の大前提に違反する」とか「聖書に言葉を付け加えている」とは断定することはないので、私も主張者の表現をそのまま引用し検証したいと思う。

 

 まず大まかな私の見解は以下の記事によってすでに主張しているので、確認していただきたい。

  特に私が創世記6章の文脈において「神の子たち=御使い」説を合意できないのは、「大洪水が主なる神の当時の全人類に対する裁きであった」という前提に基づいて考えているからである。つまり、創造主なる神が、その絶対的主権と意志によって造った御使いという霊的被造物に対して、もともと神の許可無しでは持ちえない肉体と生殖機能を与えてまで罪を犯すことを許し、しかもその責任を御使いよりも力の遥かに弱い被造物である人間に負わせ、大洪水によって滅ぼすなど、倫理的にあり得ない選択だからである。

 実際に本文を読んでみると、主なる神は「人の悪」が地に蔓延り、「人の心に思いはかるすべてことが、いつも悪い事ばかりである」ゆえ、「地の上に人を造ったのを悔い」たのである。ここには堕天使の悪に関する言及は一切ない。だから堕天使ではなく「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。」と決断した。

創世記6:1-12

1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 

2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 

3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 

4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。 

5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 

6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 

7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。 

8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 

9  ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 

10 ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。 

11 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 

12 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 

 この文脈で口語訳において「人」と和訳されている原語には、3種類ある。

1.【אָדָם 'âdâm】「人間 mankind」 3章においてはアダム個人に使われていたが、それは彼が最初の人間だったからである。

  • 2節「人の(娘たち)」
  • 3節「人」 
  • 4節「人(の娘たち)」
  • 5節「人(の悪)」
  • 6節「人(を造った)」
  • 7節「(私が創造した)人」「人(も獣も)」
  • 23節「人(も家畜も)」

2.【בָּשָׂר bâśâr】12-13節 より正確な訳語は「肉」である。実際、新改訳では「肉なるもの」と訳されている。

創世記6:11-13(新改訳)

11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 

13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている 。 

 これは3節にある「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ」という主の言葉に対して一貫性をもつ。つまり「人間」が地上でその道を乱し、堕落したゆえ、本来霊に統制されるべき存在が「肉なるもの」となり、主なる神は裁きを下すことに決めたのである。

 そして興味深いことに、この文脈において「人」と和訳されている3番目の原語がノアに使われていることである。

 3.【אִישׁ 'ı̂ysh】9節 「(全き)人」

(新改訳)

これはノアの歴史である。ノアは、正しいであって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。            

 この単語は、旧約聖書全体で幅広い使われ方をしているので、単語の持つ意味を一つに限定することはできないが、集合名詞的使われ方ではなく、属性をもつ個人という使われ方をしている。ヨブ(ヨブ1:1)に対して、またモーセやシェマヤ、エリヤ、エリシャなどが「神の人」と表現されている時にこの単語が使われているのは興味深い(申命記33:1;列王上12:22;17:18;列王下5:8;など参照)。

 

 いずれにせよ、主なる神が「人の悪」「すべての肉なるものの堕落」を見て、それゆえ「人間を」大洪水によって裁くと決めたのである。

5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 

12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 

13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている 。

  ここには神による「堕天使」に対する責任の追及など一切ない。

 

 ある人はⅡペテロ2:4-5を「神の子たち=堕天使」説の根拠として挙げているが、前後の文脈を読むと、ペテロは「主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである」という真理の例として、「罪を犯した御使たちの裁き」と「ノアの時代の不信仰な世界に対する裁き」、そして「ソドムとゴモラの町々に対する裁き」の三つを列挙しているのであって、二番目と三番目の例の文頭にある接続詞「また」が、三つの事例がそれぞれ別の内容であることを示しており、それら二つ、もしくは三つに因果関係があったと解釈する根拠はない。

Ⅱペテロ2:1-10

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。 

2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。 

3 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。 

4 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。 

5 また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。 

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、 

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。 

8 (この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。) 

9 こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、 

10 特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。

 同様のことが『ユダの手紙』における言及に関しても言える。

ユダ4-7

4 そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。 

5 あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。 

6 主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。 

7 ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。

 ユダは「不信仰なものに裁きが下る」という真理を証明するために、「エジプトの不信仰な民に対する裁き」と「堕天使に対する裁き」そして「ソドムとゴモラ、周りの町々に対する裁き」と列挙しているのである。

 ちなみに7節の「彼らと同じように」が、前節の「そのおるべき所を捨て去った御使たち」を意味しているという解釈があるが、文脈的に4節の「わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している不信仰な人々」と解釈するほうが明確な根拠を持っている。8節の「この人たちもまた同じように、...肉体を汚し権威ある者を軽んじ」が、それを示している。

7-8(新改訳)

7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。 

それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。 

 

 また御使いはそれが神のしもべである天使であろうと、堕天使であろうと、霊的被造物に過ぎず、創造主なる神の絶対的主権による許可の範囲でなければ、権能を持たない。苦難の僕ヨブのエピソードがその一例である。

ヨブ2:1-7(新改訳)

1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。 

2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 

3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」

4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。 

5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」 

6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」 

7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。 

 ヨブが受けた苦難は恐ろしく厳しいものであったが、それでも堕天使の長であるサタンには、ヨブの命に対する権限は与えられていなかった。

 また御子イエスがレギオンという名の悪霊どもを追い出したエピソードも興味深い。

ルカ8:26-33

26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。 

27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。 

28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。 

29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。 

30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。 

31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。 

32 ところが、そこの山べにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。 

33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。  

 何とゲラサの町の男に憑依してた悪霊どもも、御子イエスの許可なしでは、豚の群れの中にされ入り込むことができなかったのである!つまり悪霊の権限は制限されており、主なる神の許可なしにはその制限を越えて勝手な行動は取れないことを意味している。

  また新約聖書には御子イエスによる大洪水前の状況の説明があるが、「神の子たち=堕天使」説によれば大洪水の裁きの原因になったはずの「堕天使たちと人の娘たちの婚姻」を暗示するような「異常な要素」は見つけることができない。

マタイ24:37-39

37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 

38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 

39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。   

ルカ17:26-27

26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。 

27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。  

 

 (3)へ続く

初代教会における書簡の権威(3)

(一部抜粋)

新約聖書を読む限りにおいて、論争を裁定したり、教理事項を決定する上で信者は聖書のみを参照するようには教示されていないと思います。(その理由の一つは、初代教会が存在していた時、27巻の新約聖書はまだ編纂されていなかったか、完成していなかったか、もしくはカノンとして認定されていなかったからです。)

 

新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者たちが、旧約聖書を持ち、使徒たちおよび長老たちのメッセージに対する証人としての召しを受けつつ、(イエスの御名と主の権威によって、つなぎそして解くべく)一同に会している図です(マタイ18:18-19;使徒15:6-29)。そしてそういった教会的権威が消滅し、最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになったということを指摘している箇所は聖書のどこにも見い出されません。

 そもそも「教会的権威」とは何であろうか。【ἐκκλησία エクレシア】つまり

「イエス・キリストの御名によって集まっているニ人または三人以上の集まり」が、確約されているイエス・キリストの臨在において、「全てのことを確かめ」、「つないだり、解いたりする」、その裁定の権威とは何によるものだろうか。

マタイ18:15-20

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。 

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 

17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 

18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 

19  また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 

20  ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。  

 ちなみに16節の「二人または三人」は確証すべきことの「証人」であって、必ずしも「教会」のことを指していないのは、次節に「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい」と次の段階として区別してあることで理解できる。つまり「教会」は「イエス・キリストの御名によって集まる」という条件による二人または三人の信仰者の集まり、ということがわかる。

 この「イエス・キリストの御名によって」とは、キリストの絶対的主権を表している。実際、教会は主イエス・キリストのものであり、彼自身がその教会を建て上げると宣言している。

マタイ16:13-19

13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。 

14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。 

15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 

16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 

17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。

18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 

19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

 この聖句を根拠に「主イエスが使徒ペテロを教会における最高権威者として任命した」と解釈する見解があるが、以下の論点が反駁している。

  • 使徒ペテロが、エルサレム初代教会で最高権威を持っていたという証拠はない。むしろ彼は他の使徒たちからサマリヤへ「遣わされて」いた。

使徒8:14

エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。 

  • 使徒パウロは、主イエスが使徒ペテロのことを「割礼の者への使徒の務めにつかせた」と認め、自分自身の「異邦人に遣わされた使徒」に立てられたことと同列に扱った。つまり使徒ペテロはユダヤ人や異邦人による全ての信仰者の集まりの上に立つ権威者として認識されていなかった。

ガラテヤ2:7-8

7 それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、 

8 (というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、 

  • 使徒パウロはエルサレム教会の「柱として重んじられている」人物として、ペテロの他にヤコブとヨハネも記している。つまりペテロに最高指導者としての立場が与えられていなかったことを示している。

ガラテヤ2:9

かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。 

  • 「あなたがたは使徒(複数形)と預言者(複数形)という土台の上に建てられており」と記されているので、使徒ペテロだけが土台ではあり得えない。

エペソ2:19-22

19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 

20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 

21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 

22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 

  • ペテロに「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と宣言した御子は、同様に他の弟子たちにも同じ権威を与えた。

マタイ18:18

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。

ヨハネ20:22-23

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 

23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

  • 御子イエスが「あなたはさいわいである」と言ったのは、使徒ペテロ個人の徳のゆえではなく、天の父なる神が啓示するままに「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白したからである。もしペテロ自身の功徳によるものであったら、「血肉ではなく」とは特記しなかっただろう。またペテロの告白の直後に、「神のことを思わず、人のことを思っている」と戒められたエピソードは、御子がペテロのことを使徒という役割によってではなく、「霊的な思い」を持っているか、それとも「肉的な思い」でいるかで判断し、導いていたことがわかる。

マタイ16:21-

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 

22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 

23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 

 このように可視的教会も普遍的・霊的教会も、その権威は御子イエス・キリストのものである。そしてその絶対的権威に恭順する時のみ、その力と共に働くことができるのである。

Ⅱコリント13:8

わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。 

ヨハネ17:2

あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。 

Ⅰコリント5:4

(口語訳)

すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、 

(新改訳)

あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって

 このように教会の権威の所在について考える時、冒頭記事の主張にある「教会的権威が消滅」し、「最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになった」という設定自体、既存の宗教組織の権威の立場から見た偏見でしかないことがわかる。

 主イエス・キリストの御名によって集う信仰者の集まりの権威は、その規模の大きさに関係なく、「私は、私の教会を建てる」と宣言した主イエス・キリストに属するものである。そして一つの地域教会(それが個人の家庭で二、三人が集う集会だろうと、迫害の目を逃れて山の中で内密に集うものだろうと、大都市の建造物の中で集うものだろうと)がその御子の霊的権威を適用できるには、ただ御子の命じた言葉を守る、その恭順の中においてのみである。

マタイ7:24-27

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 

25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 

26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 

27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 

ヨハネ14:21-24

21 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。 

22 イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。 

23 イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。

24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。  

 実際、小アジアのいくつかの教会は、御子の忠告の言葉に従って悔い改めなければ、「あなたの燭台をその場所から取りのけよう」「あなたを口から吐き出そう」と警告されていたのである。

黙示録2:1-7

1 エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。 

2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 

3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。 

4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 

5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。 

6 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。 

7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。 

黙示録3:14-22

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。 

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。 

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 

21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。 

22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。 

 地上の如何なる組織も、それがたとえ「キリスト」「福音」「普遍」「正統」という表現を含む名前を持っていたとしても、主イエス・キリストとその言葉の権威の下に服従していなければ、何の霊的権威ももたず、神が喜ぶ実を結ぶことはない。

へブル6:4-8

4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 

5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 

6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 

7 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 

8 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。 

 反対に私達がたとえ何の地上的権威も力の持っていない小さな群れであったとしても、書き記された御言葉を手に、全ての権威をもつ栄光のキリストの証人として、全世界に福音を伝え続けよう。それが恵みによって救われた私達の、地上における唯一の使命なのだから。

マタイ28:18-20

18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 

ルカ12:32

恐れるな、小さい群れよ。

御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。 

初代教会における書簡の権威(2)

 (1)の記事において、西暦60年代前半の諸教会、特に現在のトルコがある地方において、使徒パウロと使徒ペテロの数々の書簡に関して、その信仰の従順の基準としての権威が認識されていたことを考察した。

 非常に興味深い点は、当時の諸教会において使徒ペテロは十二使徒の一人としてその権威が公に認められていたが、使徒パウロの場合、より複雑な状況に置かれていたことである。実際、パウロの使徒としての権威を疑う者も少なくなかったことが記録されている。しかもその疑いの声が、自ら宣教し建て上げたコリントの兄弟姉妹の間から上がっていた。本来、その働きの恩恵を誇りに思い、擁護してもおかしくなかった人々から、コリントの宣教に直接携わっていなかった他の使徒たちと比較され、酷評され、その召しと権威を疑われていたのだから、パウロの痛みは相当だったと思われる。

 それゆえパウロは、自ら書簡の中で弁護せざる負えなかった。

Ⅰコリント9:1-2

1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。 

2 わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。

Ⅱコリント11:5-6

5 事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。 

6 たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。 

Ⅱコリント12:11-12

11 わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。 

12 わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。 

 自分に最も近い同労者であったテモテへの手紙にさえ、自分が使徒として神に立てられたことを敢えて書かなければいけなかったのだから、パウロの権威に対する批判は恐ろしく辛辣だったと想像できる。

Ⅰテモテ2:7

そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。

 しかしパウロの使徒としての権威を認めず、彼の人格と働きを卑しめていた人々さえ、ある意味、彼の書いた手紙に権威と力があることを認めていたことは意味深い。

Ⅱコリント10:8-11

8 たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい。 

9 ただ、わたしは、手紙であなたがたをおどしているのだと、思われたくはない。 

10 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。 

11  そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。  

  実際、パウロの名前を勝手に利用し、彼が開拓伝道し建て上げた教会に対して偽の手紙を書き、教会に混乱をもたらそうとする者がいたことを、以下の聖句は暗示している。だからパウロは手紙の内容が自分のものであることを証明するために、他の部分では代筆者に記録させたのに対し、挨拶の言葉を自ら書き記した。

Ⅱテサロニケ2:22

霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。  

Ⅱテサロニケ3:17

ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。

 実際、当時すでに「偽使徒」「偽教師」「偽預言者」と呼ばれる人々がいて、福音宣教の働きに少なからぬ害をもたらしていたのである。

Ⅱコリント11:13

こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。 

テトス1:10-11

10 実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。 

11 彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。 

Ⅰテモテ1:5-7

5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。 

6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、 

7 律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。 

 また同じキリストを宣べ伝えながらも、その動機が使徒としてのパウロの権威に対する妬みや闘争心、党派心によるもので、牢獄に入れられていた使徒パウロを苦しめていたことが記録されている。

ピリピ1:15-17

15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。 

16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、 

17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。 

 使徒パウロや使徒ペテロが数々の書簡を諸教会に書き送った時代よりも後の時期に書かれたと言われている『黙示録』や『ヨハネの手紙第一、第二、第三』には、偽使徒や偽預言者のことを「ためす」、つまり検証し、真偽を確認する行為について言及がある。それはつまり、当時の諸教会において、霊的指導者や教師の適性について真偽を判断するだけの基準が、信徒たちのうちにしっかりと共有されていたことを暗示している。少なくとも使徒ヨハネは、小アジアの諸教会の信徒たちが、自分たちで真偽を判断することができると知っていたことを意味している。

黙示2:2 

2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 

Ⅰヨハネ4:1

愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 

 それは使徒パウロが勧告しているように、使徒たちの口頭による教えだけでなく、書簡によって伝えられた教えが、当時の諸教会に根付いてからではないかと思う。

Ⅱテサロニケ2:15

そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。  

 

(3)へ続く

初代教会における書簡の権威(1)

(一部抜粋)

新約聖書を読む限りにおいて、論争を裁定したり、教理事項を決定する上で信者は聖書のみを参照するようには教示されていないと思います。(その理由の一つは、初代教会が存在していた時、27巻の新約聖書はまだ編纂されていなかったか、完成していなかったか、もしくはカノンとして認定されていなかったからです。)

 

新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者たちが、旧約聖書を持ち、使徒たちおよび長老たちのメッセージに対する証人としての召しを受けつつ、(イエスの御名と主の権威によって、つなぎそして解くべく)一同に会している図です(マタイ18:18-19;使徒15:6-29)。そしてそういった教会的権威が消滅し、最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになったということを指摘している箇所は聖書のどこにも見い出されません。

 前置きとして、私は「聖書のみ」というモットーは、宗教改革における「カトリック教会組織の権威に対する抗議」という文脈の中で強調されたものだと考えているので、敢えて声高に叫ぶようなことはしないし、このブログにおいても自分の主張として使ったことはない。

 というのも、霊的領域において権威が福音の啓示に準じている場合、それに従うべきであると書いてあるからである。

へブル13:17

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 

Ⅰテモテ5:17

よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。 

Ⅰテサロニケ5:12-13

12 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 

13 彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 

 勿論、上述の聖句からわかるように、その従順は「指導者」「長老」という肩書や地位自体に対してではなく、「神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている」「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老」「あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々」という、実質的条件がついている権威に対してなのである。

 実際、地上における信仰者の共同体を指導する立場の人間には、それがどのような名前で呼ばれていようが、正確な基準による適性が要求されているからである。

 つまり使徒パウロから手紙を受け取ったエペソのテモテやクレテ島のテトスは、手紙の中に書かれていた適性の基準に従って、それぞれの地域教会の指導者の任命、つまり純粋な意味における権威を定めていたのである。

 実際、新約聖書の27巻がカノンとして制定されるはるか以前に、使徒パウロの書簡の「書かれた言葉」は、地域教会の信仰者に対して恭順を求める権威を持っていた。

Ⅱコリント2:9

わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。 

Ⅱテサロニケ3:14

もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。 

ピレモン21

わたしはあなたの従順を堅く信じて、この手紙を書く。あなたは、確かにわたしが言う以上のことをしてくれるだろう。

 冒頭の記事のスティールマン氏の表現を借りるなら、「新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者」であったテモテやテトス、また「コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たち」(Ⅱコリント1:1)や「テサロニケ人たちの教会」(Ⅱテサロニケ1:1)、コロサイの町で自分の家を礼拝のために開放していた信徒ピレモンが、使徒パウロの書簡を持ち、それを朗読しながら神の御心を行おうとしている図、である。

 そのパウロの書簡は、書簡の宛先の一つの地域教会に限定されず、同じ地方の他の地域教会においても朗読されるように勧められていた。つまり書簡に書かれた教えが共有されるよう取り計らわれていたのである。

コロサイ4:15-16

15 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。 

16 この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。  

 また一通の手紙が、広域の地方にある複数の教会へ送られていた場合もある。

ガラテヤ1:1-2

1 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、 

2 ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。 

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  またはテトスの場合のように、一通の手紙の教えをクレテ島(クレタ島。その面積は8,336 km²だから、北海道とほぼ同じ大きさである)の各町の教会へ適用するように勧められている場合もある。

テトス1:5

あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。  

 使徒ペテロも自身が書き送った書簡の中で、使徒パウロの数々の書簡が広域にある複数の教会で読まれていたことを書き記している。

Ⅱペテロ3:15-16

15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。 

16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。  

 15節の「あなたがた」は、ペテロが第一の手紙を書き宛てた人々と同じ、現在のトルコ領の広域に散在していた信仰者たちであった。

Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントガラテヤカパドキヤアジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

Ⅱペテロ3:1-2

1 愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。 

2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。 

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  この「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」の領域にあった諸教会へ送られた使徒パウロの書簡は、以下の通りである。

  • 『ガラテヤびとへの手紙』
  • 『エペソびとへの手紙』
  • 『コロサイびとへの手紙』
  • 『テモテへの手紙第一、第二』(テモテは当時、小アジアのエペソにいた。)
  • 『ピレモンへの手紙』(コロサイの信徒)

 他にもラオデキヤへ送った手紙も暗示されているが、現存していない。新約聖書の中の使徒パウロが書いた13通の書簡のうちの6通である。勿論、牧会者だったテモテやピレモンなどに個人的に宛てた手紙が、諸教会宛てに書かれた手紙と同じように回覧されていたとは考えづらいが、新約聖書の正典化よりもはるかに早い時期、まだ使徒パウロも使徒ペテロも殉教していない時期(おそらく西暦60年代前半頃)に、現代のトルコがある広域において、二人の使徒が書いた数々の書簡が、信仰の権威ある基準として共有されていたことを示している。

 実際、使徒ペテロがこれだけの広域に散在していた諸教会宛てに、一通の手紙で書き送ったということは、当時すでに、諸教会間において何らかの回覧システムが確立されていたことを示している。羊皮紙に比べると相対的に廉価であったパピルスに書き写し、配布されていた可能性もある。しかも使徒パウロがコロサイ教会へ勧めた回覧の言及がないことから、手紙を回覧したり、配布したりすることに関して、暗黙の了解があったことを示している。

 また使徒パウロが第二次伝道旅行でコリントに一年半滞在していた時期(西暦50-51年頃)に書かれたと言われている『テサロニケびとへの手紙第二』では、使徒の権威を悪用した偽の手紙に関する言及があることから、当時すでに、使徒たちによって書かれた手紙が読まれ(西暦50年代初めの頃はまだ、その数は少なかったと思われるが)、その権威が諸教会の間で認められていたことを暗示している。

Ⅱテサロニケ2:1-2

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。 

 

(2)へ続く

主イエス・キリストを知る知識

Ⅱペテロ1:1-15

1 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。 

2 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。 

4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。 

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、 

6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、 

7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。

8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。 

9 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。 

10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。 

11 こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。 

12 それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。 

13 わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。 

14 それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。 

15 わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。 

 このペテロの手紙の冒頭部分には、聖書的な意味での知識に関する明確な教えが織り込まれている。その知識の本質やもたらす結果、またその知識を受ける側の役割などである。

  1. 知識とは神と主イエスを知ることである(2-3節):それは「神と主イエスに関する教義的知識の蓄積」以上に、「神と主イエスとの個人的な交わりに基づく知識」である。2節と3節そして8節において「知識」と和訳されている原語は【ἐπίγνωσις epignōsis】で、「承認、認定、認知、知識」という意味で、HELPS Word-studiesによると、「関係における知識、経験的知識」ある(Ⅰヨハネ1:1-3参照)。そして5節における「知識」は【γνῶσις gnōsis】で、行為としての「知ること」が直義である。
  2. 知識が神の様々な賜物をもたらす:恵みと平安(2節);いのちと信心とにかかわるすべてのこと(3節)
  3. 知識は成長のプロセスの一段階である:「徳には知識を、 知識には自制を」(5-6節 新改訳)「自制」「節制」ということは、「与えられた知識」が信仰者の自我に積極的に働きかけ、「ブレーキをかけたり、アクセルを踏んだり、ハンドルを切ったり」するということである。自制は御霊の実でもあるからである(ガラテヤ5:22-23参照)。また「あなたがたは、力の限りをつくして...加えなさい」とあるから、信仰者はその聖霊による知識の働きに対して能動的である。
  4. 主イエス・キリストを知る知識は私達に働きかけ、実を結ぶ(8節):信じる者の意志に働きかけ、御心を行うことの熱意を与え、また神が喜ぶ実をもたらす。
  5. 信仰者はそれを知り、真理として持っているが、常に思い起こす必要がある(10、12、15節):知識を持っていること自体に安泰するのではなく、自分が何を受けたかを常に再確認する必要がある。

 この知識に基づく成長の必要性は、この手紙の締めくくりの言葉と、反対にそのような自覚のない場合の恐ろしい結果を示す言葉によって、さらに強調されている。

Ⅱペテロ3:18

そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。 

 ちなみにこちらの「知識」は【γνῶσις gnōsis】である。1章における「プロセスの一つとしての知ること」と「…知ることにおいて、ますます豊かになりなさい」という勧告は繋がっている。

Ⅱペテロ2:20-21

20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。 

 この聖句において「知ること」と和訳されているのは【ἐπίγνωσις epignōsis】で、「この世の汚れからのがれた後」という後に続く節に表れているように、文脈的にも単なる教義的知識というよりは、経験的知識という意味だろう。

 私達のうちで知識自体が目的化されてしまうと、知識の方向性を見失い、「怠る者」「実を結ばない者」「盲人であり、近視の者」「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者」だけでなく、「救われる前の状態よりも悪くなる」、つまり御子イエスの尊き犠牲によって与えられた「恵みと平安」「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」を踏みにじることに繋がってしまいかねないのである。

聖書の啓示に基づいた御子イエスとの出会い:ピリポ

ヨハネ1:43-45(口語訳)

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。 

44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。 

45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。  

 ガリラヤ湖北部沿岸の小さな漁村であったベツサイダの出身のピリポは、十二使徒の一人として御子イエス・キリストによって召命を受けた人物であり、使徒行伝6章に登場するピリポとは別人である。

 ここで御子はそのピリポに出会い、「私に従ってきなさい」と非常にシンプルに力強く語りかけ、ピリポは迷わず従ったようである。同じ村出身の兄弟アンデレとペテロがすでに御子に従っていたことも、ピリポの選択を助けただろうと思われる。

 そして今度はピリポがナタナエルに出会い、御子のことを証しした。聖句からはピリポとナタナエルが以前から知り合いであったかどうかは判断しかねないが、共観福音書においてピリポとバルトロマイが組で書かれたり、続けて書き記されていることから、12使徒の一人バルトロマイがナタナエルではないかという説もある。しかし使徒行伝ではピリポとバルトロマイは組で書かれていないので、あくまで推測の一つとして捉えるべきだろう。

マタイ10:3

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 

マルコ3:18

つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 

ルカ6:14

すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、 

使徒1:13

彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。 

 興味深いのは、ピリポがナタナエルに語った、イエス・キリストに関する説明の言葉である。

「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」

 ピリポをはじめ、全てのイスラエル人が子供の時から会堂において読み聞かされていた律法の書や預言者の書の中に記されていた「イスラエルの王」つまり救い主メシアが、「ヨセフの子、ナザレのイエス」として実際に肉体をもった顕れた、という証である。つまりピリポは旧約聖書の数々の預言が、目の前にいる一人の男イエスにおいて成就した、と確信し、それを証ししたのであった。

 そして「わたしたちは」と第一人称複数で語っているということは、先に弟子として従い始めていたアンデレやペテロ、ヨハネなども、同じ証しを共有していたことを暗示している。

 そしてピリポがこの告白をしたのが、御子イエスに実際に会い、従い始めた後のことだったのも興味深い。その証はピリポの頭の中で構想した哲学的概念ではなく、まさしく書き記された聖書と、イエスという肉体をもった一人の人間とに基づいた証しだったのである。

 それはまた福音書記者ヨハネの証しにも共通するものである。

ヨハネ1:14

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

わたしたちはその栄光を見た。

それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 

 口語訳では「ナザレのイエスにいま出会った」と、原語には無い「いま」という言葉を挿入しているが、翻訳者はある意味、ピリポの証しのいきいきとしたニュアンスを表現しようとしたのかもしれない。

 この「聖書の啓示に基づいた御子イエスとの出会いと交わりの証し」というのは、御子自身も「永遠の命、つまり救いを得るために重要なプロセス」として語っているものである。

ヨハネ5:39-40

39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 

  聖書の預言は「御子イエス・キリストについて」証ししているが、それを知識として調べ、知るだけではなく、それを基に「御子イエス・キリスト自身」を祈り求めること。

 これこそ、永遠のいのちを得る道である。

何の権威、誰の名によって

使徒4:5-12

5 明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。

6 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。

7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。

8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、

9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、

10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。

11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。

12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族が、役人、長老、律法学者たちをエルサレムに召集した。つまり当時のユダヤ人社会において社会的・宗教的権威をもつ人々のグループが、使徒たちを尋問したことになる。

「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。

 しかしこのような権威に関する尋問を受けたのは、使徒たちが初めてではなかった。彼らの教師であり、主である御子イエスも、当時の祭司長たちや民の長老たちから同様の尋問を受けていたからである。

マタイ21:23-27

23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。

24 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。

25 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。

26 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。

27 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。

 『ルカによる福音書』は、祭司長たちや民の長老たちが御子イエスの権威を問いただしたときは、御子が宮の中で「人々に教え、福音を宣べておられる」ときだったことを特筆している。

ルカ20:1

ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、

 実は引き合いに出されたバプテスマのヨハネも、言葉は違うものの、権威に関する「尋問攻め」を受けていた。

ヨハネ1:19-28(岩波翻訳委員会訳)

19 ヨハネの証しは次の通りである。

ユダヤ人たちがエルサレムから祭司とレビ人を[彼のもとに]遣わして、「お前は誰だ」とたずねさせた時、

20 彼は公言して否まず、「私はキリストではない」と公言した。

21 そこで、「どういうことだ。お前はエリヤか」とたずねると、彼は言う、「私は違う」。「お前はあの塑言者か」。すると、「いや」と答えた。

22 そこで彼に言った、「お前は誰だ。われわれを派遣した人たちに答えを持って行かせてくれ。お前は、お前自身について何と言うのか」。

23 彼は言った、「私は預言者イザヤが言ったように、『お前たち、主の道をまっすぐにせよ』と、荒野で呼ばわる者の声である」。

24 彼らはファリサイ派の人々から遣わされていた。

25 彼にたずねて、彼らは彼に言った、「それでは、お前がキリストでもエリヤでもあの預言者でもないのなら、なぜ洗礼を授けているのか」。

26 ヨハネは〔次のように〕言って彼らに答えた、「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの間にあなたがたのわからない方が立っておられる。

27 〔その人は〕私の後から来る方で、[この]私はその者の片方の皮ぞうりの紐を解く資格すらもない」。

28 これらのことはヨルダン〔河〕の向う、ベタニアで起こった。ヨハネはそこで洗礼を授けていたのである。

 口語訳ではなく、岩波委員会訳を選んだのは、祭司やレビびと(律法学者も含まれていたと思われる)の宗教的立場と、どこにも所属していなかった洗礼者ヨハネの立場を考慮すると、祭司たちのより強い口調による表現が適切だと思うからである。

  • 「お前は誰だ」
  • 「お前はエリヤか」
  • 「お前はあの預言者か」
  • 「お前は誰だ。われわれを派遣した人たちに答えを持って行かせてくれ」
  • 「お前は、お前自身について何と言うのか」
  • 「それでは、お前がキリストでもエリヤでもあの預言者でもないのなら、なぜ洗礼を授けているのか」

 要するに祭司たちは、洗礼者ヨハネに対して「一体何様のつもりだ。何の権限があって、洗礼を授けているんだ」と責めていたのである。

 

 注目すべきは、主イエス・キリストも洗礼者ヨハネも使徒たちも、当時のユダヤ教や社会に対して内部から改革を起こそう、という反権威的態度で行動していたのではなかった点である。彼らは皆、人間の霊魂に対して、福音を語り、預言を解き明かし、救い主の御名について証しし、聖霊の力によって癒しを行っていただけであった。それを「権威の問題」として扱っていたのが、祭司や律法学者、長老など、権威側についていた人間だったのは興味深いことである。

 使徒パウロは、自分が伝道し建てあげたコリントの地域教会の一部の人々から、エルサレムの十二使徒と比較され、批判され、蔑視されるという扱いを受けていた。そのような事態に対して、パウロは様々な観点から自分の働きを弁護しようと試みている(Ⅱコリント10章ー13章参照)。生粋のユダヤ人としてのプロフィール、異邦人宣教者としての働き、さらにその働きの中で経験した無数の困難。そのようなものを書き記しつつも、最終的に自分の弱さを誇り、その弱さのうちに絶大な力で働くキリストの名を誇るように聖霊に導かれているのは、読んでいて感動的ですらある。

Ⅱコリント12:5-10(新改訳)

5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 人間同士のパワーゲーム、地位、権力、優劣。これらのものに囚われる心を捨て、与えられた聖霊を通して、私たちの心が「キリストの平和」に支配され、「キリストの言葉」で豊かに満たされ、すべての言動を「キリストの名」によって為すことができますように。

コロサイ3:15-17

15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。

16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。