an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

福音書は「贖罪」を語っていないのか(3)

6.使徒ペテロの証言:福音書が「贖罪」について語っておらず、イエス・キリストの教えと使徒パウロの教えは矛盾するという説について検証しているが、それが聖書の啓示とは異なることを(1)(2)において考察した。特に(2)において、使徒パウロが主イエス・キリストから受けた啓示をそのまま福音として宣べ伝え、個人的な意思によって「贖罪論」を付け加えたのではないことを書いた。

 その使徒パウロが書いた手紙について、使徒ペテロの興味深い言及がある。

Ⅱペテロ3:15-16

15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。

16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。 

 もし使徒パウロが自分勝手に教理をねつ造し、各教会に手紙を書き送っていたと使徒ペテロが判断していたら、「私たちの愛する兄弟」とか「彼に与えられた知恵」など書くことはなかっただろう。特にペテロが同じ手紙の中で「偽預言者」や「偽教師」「権威ある者を軽んじる人々」「神の約束をあざける者」を非常に厳しい言葉で断罪していることを考慮すると、ペテロはパウロの教えに反対するどころか、むしろその霊的知識に対して尊敬の念を持っていたことは明らかである。

 実際、聖霊を受ける前は「メシアの苦難」という真理を受け入れることができず、イエス・キリストを人の思いで戒めさえした(!)ペテロは、自身の手紙の中で「キリストの死による贖罪の真理」を非常に美しい表現で書き記しているのである。

Ⅰペテロ1:18ー19

18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、

19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。 

 そしてその当時、「無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして」いたように、現在でも同じことが起きていることが、使徒ペテロが受けていた霊感の正当性を証明している。 

 

7.使徒ヨハネの証言

Ⅰヨハネ2:1-2

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 使徒ヨハネはここで明確に、イエス・キリストが全世界の罪のための「贖いの供え物」(ἱλασμός hilasmos atonement, propitiation)と定義している。つまり私たちの罪に対する神の怒り、正当かつ神聖な裁きをなだめる供え物であるとして、律法に予型として啓示されている供え物であると解釈しているのである。

 「イエスが贖いの供え物」という真理が根拠にあったからこそ、ヨハネはその福音書の中で、十字架の上で息を引き取ったイエスの体について、過ぎ越しの子羊のいけにえに関する教えの成就として解釈しているのである。

ヨハネ19:33,36

33 しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。 

36 これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。  

出エジプト12:46

ひとつの家でこれを食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。 

詩篇34:20

主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。  

 

結論:使徒パウロの手紙を無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている、とペテロは書いたが、 実際、もし「イエス・キリストが人類の罪にために十字架の上で身代わりのなって死んだ」という真理が、父なる神が聖霊を通して人類に啓示した教えではなかったとすれば、罪びとが罪の赦しを受けることができる根拠が存在せず、救いの可能性をなくなるのである。イエス・キリストの贖罪論を否定する者が「自分の滅亡を招いている」と言えるのは、その者自身が救いの根拠を否定しているからである。そして当然の帰結として、彼らは人間の堕落を否定し、性善説を主張する。だがそれは御子の十字架の死を否定するだけでなく、父なる神が御子を地上に遣わしたことさえも無益なものとし、使徒パウロの証をはじめ、聖書の主張全体を否定するものである。

Ⅰテモテ1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

 ジェームス・デニーが『キリストの死』の中で記した通り、キリストの贖罪論を否定する神学は、聖書を否定する以外に「伝えるべきメッセージを何も持っていない」とはまさしく真実である。

 

参考書:

 

(4)へ続く