an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

初代教会における書簡の権威(2)

 (1)の記事において、西暦60年代前半の諸教会、特に現在のトルコがある地方において、使徒パウロと使徒ペテロの数々の書簡に関して、その信仰の従順の基準としての権威が認識されていたことを考察した。

 非常に興味深い点は、当時の諸教会において使徒ペテロは十二使徒の一人としてその権威が公に認められていたが、使徒パウロの場合、より複雑な状況に置かれていたことである。実際、パウロの使徒としての権威を疑う者も少なくなかったことが記録されている。しかもその疑いの声が、自ら宣教し建て上げたコリントの兄弟姉妹の間から上がっていた。本来、その働きの恩恵を誇りに思い、擁護してもおかしくなかった人々から、コリントの宣教に直接携わっていなかった他の使徒たちと比較され、酷評され、その召しと権威を疑われていたのだから、パウロの痛みは相当だったと思われる。

 それゆえパウロは、自ら書簡の中で弁護せざる負えなかった。

Ⅰコリント9:1-2

1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。 

2 わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。

Ⅱコリント11:5-6

5 事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。 

6 たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。 

Ⅱコリント12:11-12

11 わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。 

12 わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。 

 自分に最も近い同労者であったテモテへの手紙にさえ、自分が使徒として神に立てられたことを敢えて書かなければいけなかったのだから、パウロの権威に対する批判は恐ろしく辛辣だったと想像できる。

Ⅰテモテ2:7

そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。

 しかしパウロの使徒としての権威を認めず、彼の人格と働きを卑しめていた人々さえ、ある意味、彼の書いた手紙に権威と力があることを認めていたことは意味深い。

Ⅱコリント10:8-11

8 たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい。 

9 ただ、わたしは、手紙であなたがたをおどしているのだと、思われたくはない。 

10 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。 

11  そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。  

  実際、パウロの名前を勝手に利用し、彼が開拓伝道し建て上げた教会に対して偽の手紙を書き、教会に混乱をもたらそうとする者がいたことを、以下の聖句は暗示している。だからパウロは手紙の内容が自分のものであることを証明するために、他の部分では代筆者に記録させたのに対し、挨拶の言葉を自ら書き記した。

Ⅱテサロニケ2:22

霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。  

Ⅱテサロニケ3:17

ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。

 実際、当時すでに「偽使徒」「偽教師」「偽預言者」と呼ばれる人々がいて、福音宣教の働きに少なからぬ害をもたらしていたのである。

Ⅱコリント11:13

こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。 

テトス1:10-11

10 実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。 

11 彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。 

Ⅰテモテ1:5-7

5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。 

6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、 

7 律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。 

 また同じキリストを宣べ伝えながらも、その動機が使徒としてのパウロの権威に対する妬みや闘争心、党派心によるもので、牢獄に入れられていた使徒パウロを苦しめていたことが記録されている。

ピリピ1:15-17

15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。 

16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、 

17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。 

 使徒パウロや使徒ペテロが数々の書簡を諸教会に書き送った時代よりも後の時期に書かれたと言われている『黙示録』や『ヨハネの手紙第一、第二、第三』には、偽使徒や偽預言者のことを「ためす」、つまり検証し、真偽を確認する行為について言及がある。それはつまり、当時の諸教会において、霊的指導者や教師の適性について真偽を判断するだけの基準が、信徒たちのうちにしっかりと共有されていたことを暗示している。少なくとも使徒ヨハネは、小アジアの諸教会の信徒たちが、自分たちで真偽を判断することができると知っていたことを意味している。

黙示2:2 

2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 

Ⅰヨハネ4:1

愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 

 それは使徒パウロが勧告しているように、使徒たちの口頭による教えだけでなく、書簡によって伝えられた教えが、当時の諸教会に根付いてからではないかと思う。

Ⅱテサロニケ2:15

そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。  

 

(3)へ続く