an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

初代教会における書簡の権威(1)

(一部抜粋)

新約聖書を読む限りにおいて、論争を裁定したり、教理事項を決定する上で信者は聖書のみを参照するようには教示されていないと思います。(その理由の一つは、初代教会が存在していた時、27巻の新約聖書はまだ編纂されていなかったか、完成していなかったか、もしくはカノンとして認定されていなかったからです。)

 

新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者たちが、旧約聖書を持ち、使徒たちおよび長老たちのメッセージに対する証人としての召しを受けつつ、(イエスの御名と主の権威によって、つなぎそして解くべく)一同に会している図です(マタイ18:18-19;使徒15:6-29)。そしてそういった教会的権威が消滅し、最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになったということを指摘している箇所は聖書のどこにも見い出されません。

 前置きとして、私は「聖書のみ」というモットーは、宗教改革における「カトリック教会組織の権威に対する抗議」という文脈の中で強調されたものだと考えているので、敢えて声高に叫ぶようなことはしないし、このブログにおいても自分の主張として使ったことはない。

 というのも、霊的領域において権威が福音の啓示に準じている場合、それに従うべきであると書いてあるからである。

へブル13:17

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 

Ⅰテモテ5:17

よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。 

Ⅰテサロニケ5:12-13

12 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 

13 彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 

 勿論、上述の聖句からわかるように、その従順は「指導者」「長老」という肩書や地位自体に対してではなく、「神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている」「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老」「あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々」という、実質的条件がついている権威に対してなのである。

 実際、地上における信仰者の共同体を指導する立場の人間には、それがどのような名前で呼ばれていようが、正確な基準による適性が要求されているからである。

 つまり使徒パウロから手紙を受け取ったエペソのテモテやクレテ島のテトスは、手紙の中に書かれていた適性の基準に従って、それぞれの地域教会の指導者の任命、つまり純粋な意味における権威を定めていたのである。

 実際、新約聖書の27巻がカノンとして制定されるはるか以前に、使徒パウロの書簡の「書かれた言葉」は、地域教会の信仰者に対して恭順を求める権威を持っていた。

Ⅱコリント2:9

わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。 

Ⅱテサロニケ3:14

もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。 

ピレモン21

わたしはあなたの従順を堅く信じて、この手紙を書く。あなたは、確かにわたしが言う以上のことをしてくれるだろう。

 冒頭の記事のスティールマン氏の表現を借りるなら、「新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者」であったテモテやテトス、また「コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たち」(Ⅱコリント1:1)や「テサロニケ人たちの教会」(Ⅱテサロニケ1:1)、コロサイの町で自分の家を礼拝のために開放していた信徒ピレモンが、使徒パウロの書簡を持ち、それを朗読しながら神の御心を行おうとしている図、である。

 そのパウロの書簡は、書簡の宛先の一つの地域教会に限定されず、同じ地方の他の地域教会においても朗読されるように勧められていた。つまり書簡に書かれた教えが共有されるよう取り計らわれていたのである。

コロサイ4:15-16

15 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。 

16 この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。  

 また一通の手紙が、広域の地方にある複数の教会へ送られていた場合もある。

ガラテヤ1:1-2

1 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、 

2 ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。 

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  またはテトスの場合のように、一通の手紙の教えをクレテ島(クレタ島。その面積は8,336 km²だから、北海道とほぼ同じ大きさである)の各町の教会へ適用するように勧められている場合もある。

テトス1:5

あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。  

 使徒ペテロも自身が書き送った書簡の中で、使徒パウロの数々の書簡が広域にある複数の教会で読まれていたことを書き記している。

Ⅱペテロ3:15-16

15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。 

16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。  

 15節の「あなたがた」は、ペテロが第一の手紙を書き宛てた人々と同じ、現在のトルコ領の広域に散在していた信仰者たちであった。

Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントガラテヤカパドキヤアジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

Ⅱペテロ3:1-2

1 愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。 

2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。 

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  この「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」の領域にあった諸教会へ送られた使徒パウロの書簡は、以下の通りである。

  • 『ガラテヤびとへの手紙』
  • 『エペソびとへの手紙』
  • 『コロサイびとへの手紙』
  • 『テモテへの手紙第一、第二』(テモテは当時、小アジアのエペソにいた。)
  • 『ピレモンへの手紙』(コロサイの信徒)

 他にもラオデキヤへ送った手紙も暗示されているが、現存していない。新約聖書の中の使徒パウロが書いた13通の書簡のうちの6通である。勿論、牧会者だったテモテやピレモンなどに個人的に宛てた手紙が、諸教会宛てに書かれた手紙と同じように回覧されていたとは考えづらいが、新約聖書の正典化よりもはるかに早い時期、まだ使徒パウロも使徒ペテロも殉教していない時期(おそらく西暦60年代前半頃)に、現代のトルコがある広域において、二人の使徒が書いた数々の書簡が、信仰の権威ある基準として共有されていたことを示している。

 実際、使徒ペテロがこれだけの広域に散在していた諸教会宛てに、一通の手紙で書き送ったということは、当時すでに、諸教会間において何らかの回覧システムが確立されていたことを示している。羊皮紙に比べると相対的に廉価であったパピルスに書き写し、配布されていた可能性もある。しかも使徒パウロがコロサイ教会へ勧めた回覧の言及がないことから、手紙を回覧したり、配布したりすることに関して、暗黙の了解があったことを示している。

 また使徒パウロが第二次伝道旅行でコリントに一年半滞在していた時期(西暦50-51年頃)に書かれたと言われている『テサロニケびとへの手紙第二』では、使徒の権威を悪用した偽の手紙に関する言及があることから、当時すでに、使徒たちによって書かれた手紙が読まれ(西暦50年代初めの頃はまだ、その数は少なかったと思われるが)、その権威が諸教会の間で認められていたことを暗示している。

Ⅱテサロニケ2:1-2

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。 

 

(2)へ続く