過去に書いた『什一献金について』の記事を再度読み直していて、ふと、ある考えが思い浮かんだ。それは、「現代のユダヤ教徒たちは、旧約聖書の律法にある什一の戒めを実践しているのだろうか」というものである。
そこでインターネット上で検索してみると、以下の非常に興味深い記事を見つけた。筆者の名前が書かれていないが、内容自体、とても重要なので和訳してみた。
Chapter 3: Jews Do Not Tithe Today
Jews Do Not Tithe Today
Thankfully, Jewish theologians know better than their Christian counterparts. They are well aware that only Levites have the right to receive tithe of the people. After all, the Jewish leaders have the Old Testament as their Scripture and that’s what it commands. And since there is no Temple in existence (and consequently no ordained Levites or Priests serving in a Temple), then a major factor in fulfilling the laws of tithing does not exist in our modern world.
In regard to this, it may be profitable to relate an event that happened to me over thirty–five years ago when I was just starting to study theology in college. A letter had been given to me for answering. It was from a woman who heard that modern Jews were not tithing. She wanted to know whether the information was true, and if so, why the Jews seemingly violated the plain laws of the Bible which spoke of tithing as a law to be obeyed?
Having read the letter, I began to share her concern. To resolve the matter I telephoned three rabbis in the Los Angeles area for their explanation. Much to my dismay, all three independently of each other informed me that no religious Jew should tithe today. I was startled at their replies. This appeared to be evidence that the Jews were so lax with their biblical interpretation that they were abandoning even the simple words of their own Scripture about the laws of tithing.
By the time I spoke with the last rabbi, my youthful indignation was beginning to emerge. But that rabbi then wisely began to show me my ignorance (not his) in the whole matter. First, he admitted that none of his congregation paid one penny of tithe that was demanded in the Old Testament. He then said: "If any member of my synagogue paid tithe in the scriptural manner, he would be disobeying the law of God—he would be sinning against God."
I was staggered by his answer. He went on to inform me that since the Bible demands that the tithe be paid to Levites, he said it would be wrong to pay it to anyone else. And further, because there is presently no official Levitical order of Priests ministering at a Temple in Jerusalem, this makes it illegal at this period to pay any biblical tithe. He went on to say, however, that the moment a Temple is rebuilt, with its altar in operation and with the priesthood officiating at that altar (and the Levites there to assist them), then every Jew who lives in the tithing zones mentioned in the Bible will be required to tithe according to the biblical commands.
This teaching was a revelation to me (as it may be to some of our readers), but the rabbi gave the proper biblical answers. To pay the biblical tithe at this time, without Levites and Priests in their regular ordained offices and doing service in the Temple, would be "sin" both to the giver and the receiver. The rabbi told me: "If we are to obey the law, we cannot pay tithe unless we pay it to the ones ordained by God to accept that tithe."
The rabbi explained that though he was the chief rabbi of his synagogue, he was not a Levite. He said he was descended from the tribe of Judah and was thereby not eligible to receive tithe. The same disqualification applied even to Christ Jesus while he was on earth since he was also reckoned as having come from the tribe of Judah. This same restriction was applicable to the activities of the apostle Peter (because he was as well from Judah) and it applied to the apostle Paul (because he was from the tribe of Benjamin). Neither Christ nor those apostles were Levites so they were all disqualified from receiving any part of the biblical tithe. It is just that simple.
And listen, if Christ, Peter and Paul did not use the biblical tithe for any of their work in teaching the Gospel, Christian ministers today should not use the biblical tithe either. The Jewish religious authorities are wise enough to read what the Word of God states about the tithe and, thankfully, they abide by it. But our Gentile preachers and priests care very little what the biblical texts actually state and go merrily on their way by devising their own laws of tithing which are different from those of the Bible.
The rabbi then gave me some information on the method that many Jews use today to secure adequate funds with which to operate their religious organizations. He went on to say that the activities of his synagogue were financially supported through the adoption of the "patron system" by its members. That is, families would buy seats in the synagogue for various prices each year. The rabbi mentioned that many of his congregation actually paid more than a tenth of their income to get better seats in the synagogue. This method for raising funds is perfectly proper (from the biblical point of view) if Jews wish to use it. This is because the money is paid to the synagogue and not to an ordained Levitical priesthood.
The final rabbi was correctly interpreting the teaching of the Holy Scripture. While many Christian ministers today teach that Christians may be in danger of missing salvation itself if they do not pay tithe to the church, Jewish rabbis know better than to say such a thing. They realize that it is biblically improper (actually, it is a blatant disobedience to the laws of the Bible) for anyone to pay or to receive the biblical tithe today. And any minister or ecclesiastical leader who uses the biblical tithe (or any one who pays to a minister the biblical tithe) is a sinner in the eyes of God.
(以下、私訳)
現在ユダヤ人は什一献金をしない
幸いなことに、ユダヤ人神学者らはクリスチャンの彼らの同僚よりも知識がある。彼らは、レビ人だけが民から什一を受け取る権利をもつことをよく知っているのである。そもそもユダヤ人の指導者たちは、旧約聖書を彼らの聖典としてもち、それがそのように命じているのである。そして神殿が存在していない(そして必然的に神殿において仕えるよう任職されたレビ人や祭司もいない)以上、什一献金の律法に従う一つの重大な要素が、私たちの現代の世界において存在しないのである。このことに関して、35年以上前、私がカレッジで神学を学びはじめたばかりの時に起きた出来事と関連つけるのは役に立つかもしれない。現代のユダヤ人は什一献金を捧げていない、と聞いた一人の女性から一通の手紙が着た。彼女はその情報が真実かどうか、もし本当なら、順守されるべき掟として什一について語る聖書の明白な律法を、ユダヤ人が破っているのはなぜかを知りたがっていた。
手紙を読んだ後、私は彼女の懸念を分かち合い始めた。問題を解決するため、ロサンジェルスの地域の3人のラビに、彼らの説明を求め電話をした。非常に驚いたことに、3人ともそれぞれ独自に、敬虔なユダヤ人は誰も今日、什一献金を捧げてなならない、と私に知らせたのである。彼らの回答に私は驚いた。これは、什一の掟について彼らの聖典のシンプルな御言葉さえも捨てるほど、ユダヤ人たちは聖書解釈においてゆるいことの証拠に思えた。
最後のラビと話した時、私の若者特有の憤りが吹き出しつつあった。しかしラビは賢明に、すべての問題において私の無知(彼のではなく)を示し始めた。まず、彼の会衆の誰も、旧約聖書で要求されている什一の一銭たりとも払ったことがないことを認めた。彼はそして「もし私の会衆のメンバーの誰かが聖書的な方法で什一を払うとしたら、それは神の律法を背くことであり、神に対して罪を犯すことであるだろう」と言った。
私は彼の回答に呆然としてしまったいた。彼は続けて、什一はレビ人らに払われるべきことを聖書は要求しているので、他の誰かに払うことは間違っている、と言った。さらに、エルサレムの神殿においてレビびとによる公式な階級の祭司らの奉仕が現在存在しない故、聖書的什一を払うことは、この歴史的時代において違法になる。しかしさらに続けて、神殿が再建され、祭壇が使われ、その前で祭司職が儀式を執り行う(レビ人らが補佐する)時点で、聖書に記述されている什一を許可された地域に住むユダヤ人誰でも、聖書の戒めによって什一を払う義務があるだろうと言った。
この教えは私にとってひとつの啓示であった。(それは読者の方にとっても同様かもしれない。)しかしラビは聖書的に的確な回答をしたのである。現段階で、神殿における奉仕のために正式に任職したレビ人や祭司無しで、聖書的什一を払うことは、払う者と受け取る者双方にとって「罪」となるのである。「もし律法に従わなければいけないのなら、神によって什一を受け取ること許可された者に払うのでなければ、什一を払うことはできない」とラビは言った。
ラビは、会堂の司(つかさ)であるが、レビ人ではないことを説明してくれた。ユダ族のものであり、つまり什一を受け取る資格がないとも言った。同じ不適性は、地上の生涯においてユダ族の出身であると言われていたイエス・キリストにも適用されていた。この同じ制限は、使徒ペテロ(ユダの子孫だから)や使徒パウロ(ベンヤミン族の者だから)にも適用されえた。キリストも使徒たちもレビ人ではなかったので、聖書的什一の如何なる分も受け取ることから皆除外されていたのである。これは実にシンプルである!
よく聞いてほしい。もしキリストやペテロ、パウロが、福音の宣教における奉仕のために聖書的什一を利用しなかったのならば、キリスト教教職者も今日、聖書的什一を利用してはいけないはずである。ユダヤ教の宗教的権威は、神の御言葉が什一について主張していることを読むほど賢明であり、幸いなことに彼らはそれを尊守している。しかし私たちの異邦人の教職者は、聖句が実際に主張していることにほんのわずかしか注意を払わず、聖書の什一の掟とは異なる自分たちの掟を考えだし、自分たちの道を気楽に進んでいる。
さらにラビは、彼らの宗教組織を運営するのに適切な資金を保証するために、今日多くのユダヤ人が使う方法についていくつかの情報をくれた。彼の会堂の活動は、会員たちによる「パトロン・システム」を導入することによって経済的に支えられている、と続けて言った。つまり、ファミリーたちが毎年、様々な値で会堂の席を購入するのである。ラビは、彼の会衆の多くの人々は、会堂のより良い席を得るために、彼らの収入の十分の一よりも実際多く払っていると言った。この基金を集める方法は、もしユダヤ人が利用しようというならば(聖書的観点から)完全に適している。金銭が任職のレビ族による祭司職に対してではなく、会堂に支払われているからである。
最後のラビは、聖書の教えを正しく解釈していた。多くのキリスト教教職者は今日、教会に什一献金を払わなければクリスチャンは自分の救いを危険に晒し得ると教える一方、ユダヤ人のラビたちはそのようなことを言うほど愚かではない。彼らは、聖書的什一を払う者もそれを受け取る者だれにとっても、聖書的に適切でない(実際には、聖書の律法に対する露骨な違反である)ことを理解している。そして聖書的什一を使う教職者もしくは教会リーダーは誰でも(もしくは聖書的什一を教職者に払う誰でも)神の目には罪びとである。
確かに旧約聖書の律法は、レビ人らが土地を所有することを禁じ(「持ってはならない」)、その代わりとして主自身がレビ人の嗣業であり、会見の幕屋の奉仕の報いとして、民からすべての十分の一を受け取る権利が特別に与えられていた。
民数記18:20-24
20 主はまたアロンに言われた、「あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。
21 わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。
22 イスラエルの人々は、かさねて会見の幕屋に近づいてはならない。罪を得て死なないためである。
23 レビびとだけが会見の幕屋の働きをしなければならない。彼らがその罪を負うであろう。彼らがイスラエルの人々のうちに、嗣業の地を持たないことをもって、あなたがたの代々ながく守るべき定めとしなければならない。
24 わたしはイスラエルの人々が供え物として主にささげる十分の一を、レビびとに嗣業として与えた。それで『彼らはイスラエルの人々のうちに、嗣業の地を持ってはならない』と、わたしは彼らに言ったのである」。
十分の一は土地を持つことが禁じられた(つまり自分たちで食物を作ったり、牧畜することができない)レビ人に対する代償として与えられたのであって、他の部族がそれを受け取る権利は与えておらず、もしそれをするならば、それこそ「主なる神に捧げた」ものを横領する行為に等しいのである。
例えば、イタリアでは時々、家々を訪問してガス・電気・水道などの料金を不正に徴収しようとする詐欺のニュースが出回る。これらの詐欺師は、偽物の認証カードを提示し、老人などを安心させ、電気やガスの請求書を出させ、お金を横領するのである。
また視覚障碍者の年金を定期的に受け取っていた人物が、財務警備隊の調査によって、普通に自転車を乗っていることが発覚し、詐欺行為として告発されたニュースもあった。
いずれも本来受け取る権利がない者が搾取しているのだから、横領行為にあたるのである。同じことが、神殿での奉仕にために任職しているレビ人以外の者が、旧約聖書の什一を受け取る場合についても言えると、ラビたちが主張している。
ある人々は「牧師は旧約のレビ人による祭司と等しい存在である」と主張するが、それは聖書的根拠のない主張(検証記事;また教職者を「油を注がれた者」として限定的に扱う教えの検証記事はこちら)であり、もしそのような考えを適用するならば、レビびとたちが土地の所有を禁じられていたように、レビ人に関連する律法の全ての義務を牧師などの教職者たちにも適用すべきだろう。
勿論、私の意図は、地域教会運営のための経済的必要を教会員が献金で満たそうという選択を断罪するものでは決してない。実際に地域教会の運営には、相応のお金が必要であるし、宣教師や教師、牧師の経済的負担を可能な限り支えようとする思いは、聖書的だと信じる。
しかし問題点は、それを什一献金制度によって運営しようとすることであり、その制度を明らかに間違った解釈を基に「聖書が命じている」「神が命じている」と主張し、義務化したり、酷い場合には魂の救いを担保にして強要することにある。
ちなみに上の記事を読んで、私もイタリアの主要都市にあるユダヤ人共同体のラビたちに連絡をとり質問してみた。残念ながら現段階では回答はないが、もし回答を受け取ったら、許可を得てこちらの記事に追記する予定である。もし読者の方で、直接的な情報を持っている方がいるなら、共有していただければと思う。
追記(2016年12月8日):
- 未だにどのラビからも回答はないが、モデナに住んでいる信仰者で、シナゴーグの管理人(そのシナゴーグの会員であり、血統的にはレビびとである。礼拝の際に聖書を朗読する務めをしているらしい。)と知り合いでもある友人に確認してもらったところ、やはりレビ人による祭司職が存在しないという理由で什一献金は実践していない、という返答が得られた。
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www.torah.itという興味深いサイトにこのテーマについて問い合わせたところ、サイトの管理主のユダヤ人の方から丁寧な回答があった。やはり「現状では、神の宮に関するすべての律法は凍結された状態であり、実践することはできない。例えば、過ぎ越し祭のいけにえに関して、現在では過ぎ越しの食事の中で、いけにえを捧げることができないことを言及する習慣がある。」とのことだ。しかし例外として、長男が生まれた場合、親はアロンの子孫であるCoanim(CoenとかKahn、イタリアだとSacerdoteという苗字で特にロンバルディア州やピエモンテ州に多い)に贖いの代価を払い、要するに「神の属する長子を祭司に代価を払うことによって贖う」という伝統は存続しているそうだ。おそらく民数記18:15「すべて肉なる者のういごであって、主にささげられる者はみな、人でも獣でも、あなたに帰する。ただし、人のういごは必ずあがなわなければならない。また汚れた獣のういごも、あがなわなければならない」や、民数記3:45-51にある戒めに関するものだろう。代価は銀貨5枚であるが、その金額は貧しい人々のために使われるということで、大概の親はそれ以上の金額をCoanimに払うということである。ただこれはどちらかというと初子や初穂に関する戒めで、全収穫の十分の一を捧げる戒めとは異なるものではないかと思う。
(長子の贖いのためにコイン。出エジプト34:20の「あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。」という戒めが刻まれている。)