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油を注がれた者に触れるな?(1)

油注がれた者に触れるな! 徐起源・ERM聖書学校校長 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ

 「油注がれた」とは、神様がその人に油を注いだことを意味します。たとえば、会社で部長の人を、「部長らしくないから認めない」と言っても、会社が部長と決めたら部長です。それに従わなければならない。つまり、神様が一度油を注いだら、その油注ぎはあるのです。

 聖書に「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11章29節)とあります。一度王として油注がれた者に、ダビデは王に対する態度を取っているのです。私たちは、へりくだることを覚えなければなりません。

  聖書を教える立場にいる人間が、このような教えを伝えてしまうのは、忌々しい事態である。そもそも旧約聖書に出てくる「油を注がれた者」、つまり王や預言者、レビ族の祭司たちと、新約聖書で定められている「牧師」を、同列に扱うことは聖書的だろうか。新約聖書は、「牧師(長老、監督、リーダー、など色々な呼称があるが、本質は同じで、地域教会の責任者である)」の霊的、人格的、社会的、家庭的資質というものを明確に啓示している。

Ⅰテモテ3:1-7

1 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。 

2 さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、 

3 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、 

4 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。 

5 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。 

6 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。 

7 さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。 

テトス1:5-9

5 あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。 

6 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。 

7 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、 

8 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、 

9 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。 

Ⅰペテロ5:1-3

1 そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。 

2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。 

3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。 

 特にテトス1:6において、文頭にはYoung's Literal Translationなどの英訳聖書「if any one is blameless…」のように、仮定条件として書かれているのである。要するに、「もし審査し、信徒のうちでこれらの資質を持っているものがいたら、長老として任命しなさい」という意味である。そしてⅠテモテで執事としての資質を語るとき、

Ⅰテモテ3:10

この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。 

 「この人々も」として、執事だけでなく監督も任命される前に「まず審査を受けなければならない」と正確なプロセスを定めている。この「事前審査」というシステムは、油を注がれた者として引き合いに出されているサウル王の場合とは、本質的に異なることが判る。

Ⅰサムエル10:1-13

1 その時サムエルは油のびんを取って、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った、「主はあなたに油を注いで、その民イスラエルの君とされたではありませんか。あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない。主があなたに油を注いで、その嗣業の君とされたことの、しるしは次のとおりです。 

2 あなたがきょう、わたしを離れて、去って行くとき、ベニヤミンの領地のゼルザにあるラケルの墓のかたわらで、ふたりの人に会うでしょう。そして彼らはあなたに言います、『あなたが捜しに行かれたろばは見つかりました。いま父上は、ろばよりもあなたがたの事を心配して、「わが子のことは、どうしよう」と言っておられます』。 

3 あなたが、そこからなお進んで、タボルのかしの木の所へ行くと、そこでベテルに上って神を拝もうとする三人の者に会うでしょう。ひとりは三頭の子やぎを連れ、ひとりは三つのパンを携え、ひとりは、ぶどう酒のはいった皮袋一つを携えている。 

4 彼らはあなたにあいさつし、二つのパンをくれるでしょう。あなたはそれを、その手から受けなければならない。 

5 その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。 

6 その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って新しい人となるでしょう。 

7 これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当たりしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。 

8 あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。 

9 サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。 

10 彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。 

11 もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った、「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。 

12 その所のひとりの者が答えた、「彼らの父はだれなのか」。それで「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのが、ことわざとなった。 

13 サウルは預言することを終えて、高き所へ行った。

  「もとからサウルを知っていた人々」は、サウルに何が起きたか理解できず、預言者サムエル自身も、サウルがなぜ王として選ばれたか明確に理解していたわけではなかった。主なる神が、直接的な導きによってサムエルを導いていたからである。

 また、確かにサウルは罪を犯した後も王位に留まり、ダヴィデもそのことに畏敬と従順の意を示しているが、最初にサムエルの言葉に従わなかった段階で、すでに王国を失うことの宣告を受けていた。

Ⅰサムエル13:13,14

13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。 

14 しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。

 「神様が一度油を注いだら、その油注ぎはあるのです」などと言った悠長な状況ではなかったのである。

 また「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11章29節)という聖句が引用されているが、この聖句の文脈は、「イスラエルに対する神の選び」と「約束された救いの計画」の有効性について語っているのであって、「牧師の任職は生涯的に有効である」ということなど全く触れてもいない。

ローマ11:25-36

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 

26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。 

27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。 

28 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。 

29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。 

30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 

31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。 

32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 

33 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 

34 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。 

35 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。 

36 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。 

 同じように「油を注がれた者」であった預言者についても考えてみよう。もし「牧師」を旧約聖書における「油を注がれた預言者」として同列に考えるのならば、以下の戒めも適用しなければならないだろう。

申命記18:20-22

20 ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。 

21 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。 

22 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。  

  もし「油を注がれた者」としての「権利」を要求するなら、その「義務」も律法に従って厳格に果たさなければおかしいことになる。「社会保障制度の恩恵は受けるけど、税金は納めません」という主張は、一般社会でも通用しない。現代の「油を注がれた預言者」と自称している者で、「預言」が成就しなかったり、聖書の教えに反することを教えるときに、一体どんな態度を取っただろうか。実例を挙げるまでもないだろう。

 そして新約聖書は明確に、イエス・キリストを信じた者全てが「キリストの祭司」であることを啓示している。

Ⅰペテロ2:5,9

5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 

9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 

 「牧師、監督、長老」と呼ばれている人達だけでなく、全ての信徒が執り成しの聖霊を受けていているので、「キリストの祭司」なのである。そのような意味において、全てのの信徒が「油を注がれた者」なのである。

Ⅰヨハネ2:20,27

20 しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。 

27 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。 

 新約聖書がこのように教えているのに、なぜ信徒に対して性的問題を起こしたり、信徒が捧げた献金を不正利用したりして教会に躓きを与えている「牧師」を指摘・批判する時に限って、「油を注がれた者に触れるな」と戒めるのだろうか。彼らにとって、主キリストが「油を注いだ」信徒らを躓かせることは、「油を注いだ者に触れる」という範疇に入らないのだろうか。

 「油を注がれた者」というテーマで語るとき、「王」「預言者」「祭司」という三つのカテゴリーについては語られるが、実はもう一つ、あまり取り扱われないカテゴリーが旧約聖書に啓示されている。「癒されたらい病の者」である。

 

)へ続く