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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

什一献金について(8)極貧のやもめの献金

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("...In the treasury"  賽銭箱が置かれていた場所)

ルカ20:45-47

45 民衆がみな聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた、

46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、

47 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

21:1-6

1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、

2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て

3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。

4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、

6 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 

 什一献金の教え、つまりキリスト者は全収入の十分の一の金額を主に所属する教会に献金することを義務とする教えを「聖書的教義」(この教えに関する詳細な検証はこちら)と信じて教えている教会や教団では、この『ルカによる福音書』21章1-4節は必ず引き合いで出される箇所である。特に地域教会の活動において何か特別に大きな資金が必要な事態、例えば教会会堂の購入・建築のために大きな費用がかかる時には、この箇所とマラキ書3章8-10はまず間違いなく説教において引用される。読者の中でもそのような説教を聴く経験をしたことがある方がいるはずである。

 しかしこの箇所は本当に「この貧しいやもめが生活費全額を捧げたように、私たちも主なる神に従って少なくとも什一献金を捧げなければならない」「主なる神は貧しい者と富んでいる者を同じ割合で献金するように命じる公平な神である」「イエス様がこのやもめの献金を見ていたように、私たちの献金を見ておられ、什一献金を捧げればイエス様にやもめが祝福されたように、私たちも祝福を受ける。捧げなければ祝福をうけることはできない」と言っているのだろうか。むしろこのやもめの献金のエピソードの文脈を読むと、むしろ正反対のことを言っているのではないかと思うのである。

 まず、主イエスがやもめを見た時の状況を聖書の記述から考えてみよう。彼は過ぎ越しの祭のためにエルサレムの上っていて、いつもの通り、神の宮において御言葉を民衆に語っていた。

ルカ20:1a

ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、

 主イエスは宮の中で御言葉を教える時、男女全てのユダヤ人の入場が許可されていた「女性の庭」にあった賽銭箱のそばを選んでいたようである。『ヨハネによる福音書』にも、別の機会に主がその場所で教えていたことが記述されている。

ヨハネ8:20

イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。 

 主イエスが「女性の庭」を選んでいたのは、「イスラエル人の庭」では男性しか入れず、また「異邦人の庭」では両替商や動物がいたので混乱していたからではないかと思われる。「女性の庭」には、ナジルびとの場所や、律法によって穢れていると見做されていた人々のための空間もあった。つまり、イスラエル人ならば誰でもそこに入ることができ、主イエスは全ての社会層の人々に福音を語ることができたのである。

 その「女性の庭」の中で、なぜ献金の目的別に並べられていた13個の賽銭箱にそばを選んだのかは正確にはわからないが、おそらく律法学者やパリサイびとも含め、宮に来た人々が皆、立ち寄る場所だったからかもしれない。

 『ミシュナ』の記述によると、賽銭箱の近くに祭司がいて、献金をする人は祭司にその金額をあらかじめ伝え、献金が箱に投げ入れられた時に祭司がその額を叫んでいた。(Mishnà,Shekal’m 2:1;6:1,5)さらに賽銭箱はラッパのような形をしており、お金が箱の中に落ちるときにかなりの音が出る構造になっていた。偽善者たちは敢えて大きな音が出るように、同じ金額でも単位の小さい小銭をたくさん用意して、人々に聞こえるように投げ入れていたという。祭司の叫び声と相まって何ともえげつない状況だが、金持ちたちの競争心や虚栄心、また貧しい人々の羞恥や気まずさが目に見えるようではないだろうか。 

 そのような偽善的な光景を目の前にして、主イエスは弟子たちに「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」と警告したのである。つまり律法学者やパリサイびとは、ただでさえ社会的にも経済的にも厳しい生活を強いられていたやもめたちの弱い立場や純粋な信仰に付け入り、貪欲に得た有り余る富のうちの一部を、「イスラエルの神の栄光のため」「神の宮のため」と言いつつ、ただ自分の虚栄心のためにこれ見よがしに賽銭箱に投げ入れていた。

 そして弱者からの搾取によって得た富の一部である献金によって、エルサレムの神殿は人々が感嘆するほど「見事な石と奉納物とで」飾られていたのである。

 これは驚くほど現代の「成功の福音」「繁栄の福音」「虚栄心」に蝕まれた教会の内情に似ていないだろうか。生活に余裕などない教会員に対して、現状にそぐわない教会堂の購入や建築のビジョンを「神の働きのため」「信仰によって」という大義を使って語り、立派な会堂が建ったはいいが、これまた立派な講壇から放たれる言葉は「什一献金」「特別献金」「捧げる重要性」である。そして「什一献金の責務」に従順な者は「献身した信仰者」と牧師から祝福を受け、献金額が少ないと、まるで公衆の面前で祭司に「2レプタ!」と叫ばれているやもめのような扱いを受けたりするのである。

 そして立派な会堂を建てることができた牧師は同僚から「祝福された牧師」という評判を受け、そのプロジェクトを経済的に支えている教会員たちは、負い切れないくびきに喘ぎ苦しんでいる。

 このような悲劇は、私が知っている地域教会だけの特殊なケースだけだろうか。

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 上の二枚の写真は、カリフォルニア州の「クリスタル・カテドラル」と呼ばれている教会堂で、繁栄の福音やポジティブ・シンキングのプロモーターであったロバート・シューラ―牧師の意向で1800万ドルをかけて建造されたものである。2010年に教会は破産(!)。その後、カテドラルはカトリック教会によって5750万ドルで購入された。

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 上の写真は、ヒューストンにあるメガチャーチ、レイクウッド教会である。牧師は繁栄の神学を唱えるジョエル・オスティーンで、二番目の写真はオスティーンの自宅。一般的基準なら個人がどのような家に住もうと本人の自由だろうが、キリストの福音を委ねられた者の指標は、あくまで主イエス・キリストであるはずである。

 まあ、オースティンが説く繁栄の福音という「異なる福音」に対して一貫性があると言えば言えないこともないが・・・。しかしその「一貫性」も「神の祝福の顕れ」も、一つのシステムの中で献金する者がいるからこそ成り立つ種類のものである。

 以下の記事は、オスティーンが2014年8月にカナダのバンクーバーで開催した集会のチケットが、特等席で850ドル、「普通席」で117ドルであったことを告発している。実際に850ドルを払った人間がいるとはとても想像できないが、そもそも福音を伝えるためにお金を要求すること自体、聖書が啓示する価値観とは全く異なるものである。

www.nowtheendbegins.com

Ⅰコリント9:16-18

16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。

17 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。

18 それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。 

Ⅱコリント11:7

それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、神の福音を価なしにあなたがたに宣べ伝えたことが、罪になるのだろうか。 

黙示録21:6

そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 

 主なる神が御子の命の犠牲を通して無償で罪びとに備えてくださった福音、良き知らせを、無代価で提供すること。それが福音の使徒として神に召されたパウロにとっての報酬であり、誰も奪うことのできない誇りだったのである。

 結論として、冒頭の貧しいやもめのエピソードを基に「什一献金」の教えを説くのは間違いであり(そもそもその教え自体、新約聖書の啓示に基づくものではないが)、むしろそのメッセージは、弱者を利用したり搾取して得ようとする虚栄に対する警告であり、目に見える栄光はやがて必ず衰退するが、神の目に映る信仰は決して絶えることはない、という真理である。そう、その信仰がたとえ極貧のやもめが捧げたたった二枚の硬貨のようなものであったとしても・・・。

 

 

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