読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

什一献金について(5)当然の権利?

什一献金についての考察

第一コリント9:13,14

13 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。 

14 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

  この冒頭の聖句を引用して、「什一献金は主の働き人(牧師、伝道師等)に属するものです」という主張しているサイトがある(http://www.believers.org/jp/jbel124.htm)。モーセの律法に、神の宮で仕えていたレビ人達が、約束の地に嗣業をもたないという条件の代わりに、神の民が得た生産物の什一の捧げもの(献金ではなかった)によって生活を支えることが命じられていたことが書かれているが、その律法を14節の「それと同様に」という部分を基に、主の働き人は教会員の什一献金によって生活する権利があり、したがって「什一献金は主の働き人に属するものだ」という主張である。

 これは旧約の前述の教えが、恵みの時の教会にも有効である、という前提のもとに主張されているが、その非聖書性に関しては、「*什一献金について(1)(2)」ですでに論証済みであるので、ここでは省略する。

 確かに使徒パウロは、レビ人達が律法によって与えられていた権利を、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活する権利と同様に扱っている。しかし、その権利と、教会における什一献金制度とは聖書的な関連がないのである。しかも、冒頭の聖句のちょうど前後の句で、使徒パウロはその権利の利用を否定しているのである。

12 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。

15 しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。 

  しかもその権利を利用しない理由は、「キリストの福音の妨げにならない」ためであった。この姿勢こそ、まさしくパウロが真の「主の働き人」「福音を宣べ伝えている者」として生きていた証拠である。実際、16節から23節で、パウロにとって「福音に仕える」とはどういうことか自ら証明している。

16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 

17 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。 

18 それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。 

19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 

20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 

21 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 

22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 

23 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 

  パウロはまさに、「福音を伝えずにはいられない」「宣べ伝えなければわざわいだと重荷を感じてしまう」「福音を無代価で提供することを自分の報酬だと思う」「弱い人を救うため、自ら弱くなる」「福音のためにだったら、どんなことでもする」程、「福音のために」生きていた。しかし、そんなパウロは「福音によって」生きる権利を強要しなかったのである。什一献金を強要し、「神に返された神のお金」を自らの目的に利用し、貧しい信徒や求道者につまずきを与えている悪い働き人の態度とは、随分異なるのではないだろうか。

 パウロと同じように、とは言えないだろうが、同じ霊によって福音に仕えている働き人を、教会は惜しみなく心から支えようとする。宣べ伝えられている福音によって、喜びが満ちるからである。そこには%とか金額とかの束縛はなく、神の前で神に喜ばれるために、自ら進んで神の僕に仕えようとするのである。

Ⅱコリント9:7,8

7 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 

8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

 前述のサイトは、「什一献金は主の働き人(牧師、伝道師等)に属するものです」という持論を、以下の問いかけで締め括っている。「あなたは聖書の教えていることを説教し、また実践しますか、それとも恐れのために伝統を守りつづけますか?」

 他人のためだけに使っているとしたら、もったいないぐらい素晴らしい質問である。

 

*什一献金について(1)http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/06/02/162005

(2)http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/06/03/140004

 

)へ続く