「御子イエスは死ななければならなかった。私の命のために」
マタイ16:20-23
20 そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
自分の師を慕うがゆえの使徒ペテロの熱心な諫めの言葉「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」は、御子イエスの犠牲の死を止めることはできなかった。
また御子を「主の御名によって来たる者」メシアとして高らかに褒め称える群衆の声も、御子が十字架に架けられる計画を変更することはなかった。
マルコ11:7-10
7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。
9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
ゲツセマネの園における御子の悲痛な祈りさえも、十字架の呪いの死という「杯」を取り除くことはできなかった。
マルコ14:33-36
33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
十字架の上における御子の絶叫さえ、神の永遠の計画を変えることはなかった。
マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
「イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」 御子の苦難は、いにしえから神によって計画され、「必ず成就しなければならなかった」ことだったのである。
使徒17:2-3
2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。
長老や祭司長、律法学者たちによる律法による正義の衣で覆われた殺意さえも、神の計画の歯車の一つであった。
ヨハネ5:18
このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。
ヨハネ19:6-7(岩波訳)
6 すると、祭司長や下役たちは、彼を見ると「十字架につけろ、十字架につけろ」と言って叫んだ。ピラトゥスが彼らに言う、「お前たちが自分で彼を引き取って、十字架につけろ。私は彼に科を見いださないのだ」。
7 ユダヤ人たちが彼に答えた、「われわれには律法がある。その律法によれば、死ななければならない。自分を神の子としたのだから」。
長老や祭司長、律法学者たちは、自分たちの目の前に顕れた御子イエスの「メッセージ」、つまり「イエスは神の子であり、神と等しい存在である」という啓示をある意味、完全に認識していた。しかし彼らは律法に基づいて、その啓示を冒涜とし、結果として「イエスは死ななければならない」と断罪したのである。
確かに使徒パウロが言っているように、神の永遠の計画の知恵を知っていたとしたら、これらの宗教権威者たちは進んで「イエスを十字架に架けよ」とは叫ばなかっただろう。
Ⅰコリント2:7-8
7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
そしてたとえ罪びとの一人にその知恵を与えられていたとしても、彼は御子の必然の死の前には無力でしかなく、黙って首を垂れ、畏敬の念によって受け入れるしかなかったのである。
この「御子イエスは死ななければならなかった」がまさしく「自分のためだった」と思い知る時、死から復活した御子の尊き命がその人のうちで光を放ち始め、人生の目的も願いも価値観も、すべてが全く新しい様相を持ち始めるのである。
ガラテヤ2:19-20
19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
Ⅱコリント5:14-17
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
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