コメント欄において、以下のような非常に重要な質問を受けたので、一つの記事として聖句の解釈を共有してみたい。
7-4「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となり・・・」の部分ですが、キリストの体に結ばれるとなぜ律法に対して死んだ者になるのか、つまりキリストと(霊的に)結ばれれば律法は死ぬ(必要なくなる)ということなのでしょうか?
7-2、3で「夫が死ねば自分と夫を結び付けていた律法から解放される。・・・夫が死ねば、この律法から自由なので・・・」とありますが、ここで言う夫と寡婦の関係とキリストと自分の繋がりがよくわかりません。
まず第一に、聖書が啓示している創造主なる神は、ご自分のかたちに創られた被造物である全ての人間に対して、どうあるべきか、何を為すべきか、要求する立場にいる。そして律法(トーラー)を通して、そのご自身の要求を明らかに啓示している。
マルコ12:28-31
28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
そして「主なる神を愛する」とは、抽象的なものではなく、具体的で実際的な要求であり、それは「神の戒めを守る」ということである。
申命記10:12-13
12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
しかし律法は、その戒めを守るものに幸いを約束していると同時に、それを守らないものに対して災いと呪いをも条件つけているのである。
申命記27:26
『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
申命記28章を読めば、その「律法を守る者に約束された祝福」と「律法を破る者に約束された呪い」が鮮烈に啓示されている。
申命記28:1-2;15
1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
15 しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
このような峻厳な戒めを人間に要求する神は、人間を愛する神とは程遠いという印象を受けるかもしれないが、実際はこの律法を通して、「唯一の神がいかに神聖であるか」を示すと同時に、「その生ける神から離れた状態が、人間にとっていかに本来あるべきあり方から外れているか、つまり罪深いか」を示すためであった。なぜなら、アダムとエバの罪、つまり「神との交わりをもつために造られた人間が、神なしで自分たちの判断で生きていくあり方」が、すべての人に入っているからである。
実際、神の戒めの要求を完全に守れる人間など一人もいない。誰が、「私は神の戒めをいつも守っており、それを破ったことも、行わなかったこともありません。またこれからも破ることもないでしょう」と言えるだろうか。もしそのようなことを言うならば、神を偽り者とするものと見做されるだろう。
ローマ3:10-12
10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
ヤコブ2:10-11
10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
Ⅰヨハネ1:8,10
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
そして自分たちの力では神の要求を決して満たすことができない、つまり神の御前で正しいとされることはない罪びとを義とするために、御子イエス・キリストは地上に遣わされたのである。
ローマ3:23-24
23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
しかし、イエス・キリストが地上においてその恵みの福音を宣べ伝えていたとき、自己顕示(自分がいかに正しく、神に祝福されているかを周囲に誇示する)のために神の律法を利用していた人々がいた。
ルカ16:14-18
14 欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。
15 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。
16 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。
17 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。
18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。
つまりこれらのパリサイびとは、本来、神の栄光を顕し、人間の神の恵みの絶対的必要を啓示するためにある律法を、自分勝手に様々な解釈を加え、「自分がいかに隣人よりも正しく、神に祝福されているか」を誇示するために利用していたのである。
マルコ7:1-13
1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
主イエス・キリストの目には、そのような欺瞞が「霊的姦淫」、つまり自分が神の前で忠誠を誓った妻(神の律法)を裏切り、自分勝手な欲望を満たすため(人々の前で自分を正しいとするため)に、「他の女」(神の戒めの自分勝手な解釈、言い伝えを加えた人の戒め)と関係を結ぶ「姦淫行為」だと指摘しているのである。
またまるで「夫から出された女をめとる」ように、自分に堕落を指摘する神の律法の代わりに、「ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙遜と、からだの苦行とを伴った人間の規定や教え(コロサイ2:22-23)」や「耳障りのいい話」を受け入れ、自己満足のために利用している「姦淫行為」だと糾弾しているのである。
すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。
このような文脈の上に、質問の中で引用されたローマびとへの手紙7章は書かれている。
ローマ7:1-6
1 それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。
2 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。
3 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
4 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
5 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。
6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
つまり律法によって夫と妻の誓約関係が定められており、その繋がりは死によってしか断たれることはなく、もし生きている間に選択的にその繋がりを断つならば、それは律法によって「姦淫」と裁かれる。しかし、夫の死はその誓約関係の終了を意味し、寡婦が他の男性と結婚したとしても、律法によって「姦淫関係」と見做されることはない。
律法の下でその契約関係に繋がれている者は、生きている間、その束縛から解放されることはなく、その律法は戒めを通して、その者を「神の戒めを破る者」「罪びと」「死に値する者」「神に呪われた者」として絶えず宣告しているのである。そしてその絶えざる断罪から逃れるために、自分に都合のよい言い伝えや教えに逃避し繋がれば、神の目には霊的姦淫を犯すものとして呪われる。まさに死罪と呪いの中に「釘打たれ」身動きの取れず、解放される可能性のない、全く無力な状態なのである。
七章にある使徒パウロの叫びは、まさに律法の下に繋がれ、死以外に解放を持たない者の絶望の叫びである。
ローマ7:14-24
14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
罪を犯す者に対する律法の要求である死と呪いを、罪を犯したことがなかった御子イエス・キリストが、罪びとの代表として、代わりに十字架の上で「呪い」となり、「罪となって」死んでくださったことにより、律法の罪に対する正当な要求(呪いと死)は完全に満たされた。
Ⅱコリント5:21
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
ガラテヤ3:13
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
このように、イエス・キリストがその十字架の死によって、律法の要求(呪いと死)を永遠に満たしたことを信じる者には、神がご自身の律法によってその者に要求する罰はもう存在しないのである。
こうして律法の下で罪を犯さなかったにも関わらず、その死によって律法の要求を満たした御子の正しさにより、死から復活した御子によって、「死と呪いが存在しない」神との新しい関係に生きる恵みが、信じる者に与えられるのである。
ローマ8:1-4
1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
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