今年の1月から『生けるキリストを求めて(旧約聖書の中のキリスト)』というテーマでシリーズ記事を書いているが、時々、「なぜ私がそのようなテーマで書いているのか」「どの様な根拠で旧約聖書を解釈しているのか」など、基本的かつ核心的な部分にも触れてきた。
生けるキリストを求めて(1) - an east window
旧約聖書の解釈に関する有益な記事 - an east window
生けるキリストを求めて(47)全てを貫き、働きかけるキリストの霊 - an east window
私は、旧約聖書が創世記から始まってマラキ書に至るまで、主なる神を信じる人々がキリストの霊によって、キリストについて証しする目的のために書いた書物であると確信している。だからこそ、旧約聖書のあらゆる啓示の中に、キリストに関する啓示が予示や予型、直接的預言として散りばめられていると考え、このような聖書研究を進めているのである。
ただそのような旧約聖書の中の啓示されているキリストを見出す行為は、「人として肉体をもち、この地上で生活し、三年間の宣教活動の末、十字架に架けられて死んだ」という、キリストの受肉と地上における贖罪の死の決定的・唯一的価値をないがしろにするものでは決してない。
実際、最初の人アダムのたった一つの行為で罪が人類の中の入りこみ、その結果が例外なく被造物全体に及んだように、人の子イエスのたった一つの義の行為、つまり十字架の犠牲死によって、神の義が例外なく全ての人に備えられたのである。
ローマ5:17-19
17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
その贖罪のわざは完璧で、そのもたらす効果も完璧であるがゆえ、繰り返し行う必要もなかった。『へブル人への手紙』にはキリストの贖罪の死に関して、「一度だけ」という表現を何度か使っている。
へブル7:27
彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
へブル9:11-12
11 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
へブル9:26-28
26 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。
27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
へブル10:10
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
キリストの誕生と苦難の死、そして復活は、永遠の時から計画され、旧約聖書の中で啓示されていたが、実際にそれらの啓示が人間イエスにおいて「一度だけ」成就したとき、全てが決定的・不可逆的に変わったのである。その変化は、「さらに優った契約」「新しい契約」となって、全人類に啓示されたのである。
へブル8:6-13
6 ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。
7 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。
8 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。
9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。
10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
11 彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。
12 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。
13 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。
へブル10:5-18
5 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。
6 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。
7 その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。
8 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、
9 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
15 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
16 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、
17 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
18 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
旧約聖書の啓示を偏重するがゆえに、キリストの受肉と地上における贖罪の死の決定的・唯一的行為をないがしろにし、その行為が全人類にもたらした不可逆的な神の新しい創造である「新しい契約」から、私達の意識を逸らせようとする霊が働いている。
Ⅰヨハネ4:1-3
1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
2 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。
そう、救い主メシアは、もうすでにイエスにおいてこの地上に現われたのである。私達信仰者が待望しているのは、いまだ到来していない理念的・教義的メシアではなく、現実に人となり、罪人の罪の赦しのために十字架の上で死なれ、復活したイエス・キリストの再臨である。