『ローマびとへの手紙』(28)キリストの義を信じることによって、律法を確立する
ローマ3:30-31
30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
「不信心な者を、その信仰によって義とする神」という啓示について聞くと、福音をまだ受け入れていない人々の中には、「どんな罪を犯しても、信じるだけで罪が赦されるのは都合良すぎる。悪を助長することになる」と主張する人がいる。また、聖書を熱心に読んでいる人の中でも、イエス・キリストの十字架の恵み」をまだ実体験していない人は、律法に熱心なあまり、「キリスト者はモーセの律法を蔑ろにしている」と糾弾する。
しかし真にキリストの十字架の恵みを知った者は、個人的程度の差こそあれ、神の律法の完全さを身をもって知り、「律法の容赦ない断罪」と「律法の下にある絶望」を体験している。その人は「姦淫するな」と戒めに従おうとして、自分の中のあらゆる情欲と戦い、それに打ち勝つ力が全くないことに絶望し、また「偽るな」という戒めに従おうとして、自分の中に真理がないことに打ち砕かれた者である。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という戒めに、自分の中に神を愛する愛も、隣人を愛する愛も、自分を真に愛する愛さえもないことに、死を選びたくなるほど幻滅した者である。
律法は罪に対して全く容赦しない。律法は私が誇らしげに差し出す九つの善行には目もくれず、心の中に隠してもっている一つの悪意を断罪する。「したこと」を誇っても、「しなかったこと」を断罪し、「犯さなかったこと」を徳としても、「犯したこと」の責任に追求する。
ヤコブ2:10-11
10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
律法を完全に従うとすると、律法が求める正しさには決して届かないことを絶え間なく断罪され続けるのである。それはまさしく「呪い」である。
ガラテヤ3:10
いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
しかも律法は、その呪いに対して「アーメン。確かにその通りです」と神と人々の前で宣言しろと命じているのである!!!
申命記27:26
『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。
民はみなアァメンと言わなければならない。
しかし誰が申命記28章の律法の呪いを読んで、それが自分の身に降りかかることを甘んじて受け入れるだろうか。それを受け入れるということは、まさに神の裁きを受けることを意味し、それは永遠の死だからである。それを受け入れることができないからこそ、人間は逃げ道を求めて自己欺瞞や偽善に走るのである。器の外側をきれいにして、内側に隠している不潔なものに対する律法の呪いから解放されていると、自分を欺き、人の目も騙すのである。
マタイ23:25-28
25 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
26 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
そして聖霊によらなければ、誰もこれらの主イエスの言葉に対して、正直に「アーメン」とは言えない。しかし聖霊によって説得されるとき、人は「主よ、私の心と思いは完全に穢れて、そこから出ることができません。助けてください」と叫び求める。そのとき初めて、人は十字架の真の意味と力を体験するのである。
ガラテヤ3:13-14
13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
御子イエス・キリストだけが、律法の要求を完全に満たすことができた方である。律法の呪いという、罪に対する神の容赦ない裁きさえも、罪びとの代わりに背負ってくださり(彼だけがそれを背負う理由がなかった方である。彼は罪を犯さなかったからである)、そのことによって律法を完全に確立する義を示したのである。
そして自分の自己欺瞞による見せかけの義ではなく、キリストの完全な義を信じ、それに寄り頼む者は、神によって義、つまりそのすべての罪が赦されるのである。