Ⅰコリント4:1-7
1 このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。
2 この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
3 わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。
4 わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
5 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
6 兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。
7 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
管理人は所有者ではない。所有者から彼の私財の管理を委ねられている者である。管理人は所有者の私財を委ねられているだけあって、対価を払って所有権を購入したわけではない。
管理人は所有者に対して責任をもつ者である。管理を任されたものを自分勝手に扱う権利は与えられていない。所有者の土地の境界線を勝手に移動して、土地を切り売りし、私腹を肥やすことなど許されていない。
逆に所有者の命じた通り管理している場合、管理人には所有者の私財に関する責任をもっていない。例えば、その財産に課される税を払う義務は、所有者にあり、管理人にはない。その土地が何か国の規定に触れる場合、その責任は所有者にある。
使徒パウロは、「キリストに仕える者、神の奥義を管理している者」という自分の立場とその役割を明確に理解していた。彼はその立場と役割を、自分の努力や功徳で獲得したのではなく、あくまで神の絶大な憐れみによることを自覚していた。だからこそ、自分を他人と比較して誇ることもなく、また他人に裁かれても大して気に留めることはなかった。
そしてその自覚に基づいて生きていたからこそ、使徒パウロらは自分たちのことを「しるされている定めを越えないことを学ぶため」の例として、コリントの信徒たちのために提示することができたのである。そしてそれは、「記されている定めを越えないことを学ぶため」の管理者・しもべとしての例であって、「所有者が記した定めを越えて、私腹を肥やすことを学ぶため」の例ではない。
聖書が約束していない地上的繁栄を提案する者、「記されている定め」を軽視することを励ます者、「境界線」を自分勝手に移し替える者、自分の功徳や行いを誇る者は、決して信用してはならない。「私腹を肥やす」腐敗した管理人である。
ピリピ3:2-3;17-20
2 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。