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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

礼拝についての考察

ローマ7:4-6

4 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。

5 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。

6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。 

 キリスト者の礼拝とは、「新しい霊によって(神に)仕える」在り方の顕れである。十字架の上で命を捧げたキリストの体を通して、キリストの死に与り、また死人の中からよみがえられたイエス・キリストのものとなる、つまり彼と霊的に一つになることによって、聖霊を通して、神のために神が求める実を結ぶためである。

 イエス・キリストがサマリヤの女性に啓示した「霊と真理をもって父を礼拝する」とは、このような礼拝である。

ヨハネ4:21-24

21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 

 「イエス・キリストの十字架によってこの世の要素に死んでいる」という礼拝の前提がある故、この地上に特別な場所や建物を必要としない。また金銀や宝石、大理石、ステンドグラスなどで飾り立てた建造物も必要としない。もしろそのような地上的要素に誇りをもつことが十字架に架けられたことを知っているので、イエス・キリストだけを誇りにし、人間の欺瞞(たといそれが微々たるものであったとしても)を十字架に架けることを願う。

ピリピ3:3

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

 祈りの際に目を閉じるのも、上述の前提を意識的に体現するためである。そこで、目に見えるものによらず、信仰によって、死から復活した方の霊によって、父なる神を礼拝するのである。

 礼拝における聖餐式の目的も、信仰者の共同体が「主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる」ためのものである。キリストの死を覚え、それを共有し、同一化を求めるのである。

Ⅰコリント11:23-26

23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。 

 同じ章の前半に、「女性信者が祈りをしたり預言したりする時に、頭にベールをかけるべきである」という教えが書かれているが、この教えも同じ前提において捉えると理解しやすい。

Ⅰコリント11:3-16

3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。

4 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。

5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。

6 もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。

7 男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。

8 なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。

9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。

10 それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。

11 ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。

12 それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。

13 あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。

14 自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、

15 女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。 

16 しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。 

 キリストの体を通して罪や古い自己、地上的な誇りに死に、復活したキリストによって、キリストだけを誇りにするが故、男の栄光である女のかしらをベールで被い、人間的誇りを顕すことを拒否するのである。神の前で栄光ある天使が自分達に栄光を求めず、ひたすら神の栄光だけを求めているように。女性信者は、自分自身の光栄である髪を覆い、また男の栄光のシンボルでもある自分のかしらにベールをかけることによって、キリストの栄光だけを誇りにしていることを無言で体現するのである。同じ礼拝に参加する男性信者は、その女性信者がベールを被っているのを見ることによって、肉に頼らずキリストだけを誇りにすることを改めて意識し、また自分のかしらを覆わないことによって、自分のかしらとしてのキリストの権威を体現するのである。

 そして礼拝において語るべきは、キリストの言葉であり、その言葉から与えられる知恵の共有であって、地上的・人間的知恵ではなく、自己誇示の場でもないのである。

コロサイ3:16-17

16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。 

 このように、イエス・キリストの十字架の死と復活の前提だけに集中する礼拝は、実にシンプルで秩序があり、純粋かつ深遠なものである。勿論、地上における礼拝であるがゆえ、完全であることはあり得ないことは言うまでもない。

 

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