an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

作為の霊

マタイ7:21-23

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 

23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 ある教会が病んでいると、必ず「感情的高揚を作為的に促すような霊」が働く。礼拝の中で多くの信徒が興奮し、涙を流し大声で「主よ、主よ」と叫び、異言でメッセージしたり、その「解き明かし」をする人などが出てくる。勿論、私は新約聖書に明確に啓示されている聖霊の賜物を信じているし、本物の顕現を体験を通して知っている。しかし、肉的もしくは偽りの霊から派生する顕現があることも知っている。非常に高揚し、霊的な印象を与える礼拝でも、神の霊による純粋な礼拝でないときは、必ずあの「空しさの底に沈殿した重い何か」が残る。

 心の奥から出てくる、微かだがとても悲痛な叫びをごまかすため、現実の自分に向き合わないように、作った笑顔であいさつしたり、冗談を言ってみたり、せわしく奉仕をしてみたりするが、あなたの良心は「違う」ということを知っているのだ。

 冒頭の聖句で「主よ、主よ」と言っていた人々は、偽クリスチャンなのだろうか。怠惰で無関心なクリスチャンだったのだろうか。むしろ、キリストの名によって預言し、キリストの名によって悪霊を追い出し、キリストの名によって多くの力あるわざを行っているではないか。少なくともスケワの祭司長の七人の息子たちよりは、悪霊に認められていたはずである!(使徒19:13-16参照)

 悪霊が彼らのことを知り、彼らの命令にキリストの名によって従っていたにもかかわらず、彼らは一番重要な自分たちの主人イエス・キリストの御言葉に従わず、霊的な交わりを疎かにし、主イエスの目には「不法な働き」でしかなかった「奉仕」に明け暮れていたのである。

 昨日の記事『子供のような心』の中で、神の絶対的権威を信じるシンプルな信仰について書いたが、その神は全知の神でもある。もし感謝や賛美する気持ちがなかったら、それを覆ったり取り繕ったりしないで、そのまま告白すればいいではないか。「つらいです。へとへとです。喜びがありません」と。祈りの時に「気まずい沈黙」があってはいけないのだろうか。声に出して言うと陳腐に感じるなら、自分の中に声に出して語るほどの価値ある言葉がない思うなら、静かに神の声を待つべきではないだろうか。

 主は生きておられる。聖霊は弱い私達のために執り成しの祈りをしてくださっている。だから作為の霊に惑わされてはならない。