神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。
Ⅰコリント14:33bー40
33b 聖徒たちのすべての教会で行われているように、
34 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。
35 もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。
36 それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。
37 もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。
38 もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。
39 わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。
40 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。
今までおそらく何百回も読んできたと思うが、私は36節「それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。」がコリント教会の女性信徒を対象にした言葉だと思い込んでいたが、実はコリント教会全体に対して語っているという解釈を読んで、この手紙の全体像がより明確になった気がする。
つまりここでは、自分の霊性を買い被って高慢になり、集会の中で無秩序に霊の賜物について周りの兄弟姉妹に「解説」していた女性信徒に対して「神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。」と戒めているのではなく、この「あなたがた」は手紙全体で始めから使われているのと全く同じ対象、つまり男女の性別関係なく教会全体の信徒たちに語られているのである。ちなみに「あなたがただけ」の「だけ」と和訳されている【μονους monos】が男性形なのは、現代イタリア語と同じように、対象が男女混合の複数形の時に男性形をとるという文法上の規則による。
つまり使徒パウロは、コリント教会は「聖徒たちのすべての教会で行われているように」、地域や文化、習慣を超えて他のすべてのキリスト教会らと同じ規律(この場合、「婦人たちは集会において無秩序に話をしてはならない」という規律)を守らなければならない、という前提を基に、コリント教会が使徒パウロに示していた高ぶりを念頭において(Ⅰコリント4:6-8,18;5:2,6参照)、「神の言はあなたがたのところ(コリント教会)から出たのか。あるいは、あなたがた(コリント教会)だけにきたのか。」と言い、コリントの信徒たちが、各地の教会において共有されている真理からくる規律よりも、自分たちのことを上に置くことの愚かさを戒めたのである。
実際、神の言、つまり真理の啓示は一つの地域教会から派生したのではなく、また一つの地域教会だけが特別な啓示を受けるというようなものではなく、元来、聖霊の働きによって全ての教会に与えられ、共有されるようなものなのである。
使徒パウロの同じようなアプローチは、「被り物の教え」についても見られるものである。
Ⅰコリント11:1-16
1 わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。
2 あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う。
3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。
4 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。
5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。
6 もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。
7 男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。
8 なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。
9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。
10 それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。
11 ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。
12 それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。
13 あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。
14 自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、
15 女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。
16 しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない
時は流れ、いつの間にか、使徒パウロの時代の諸教会で共有され、実践されていた風習や規律は「時代遅れ」「現代では意味がない」と無視・軽視され、まるで自分たちが真理を生み出し、その鍵を握っているかのように、様々な詭弁や理屈が神の言の座に居座るようになってしまっている。
私たち現代の信仰者は、使徒パウロの挑戦的問いかけに何と答えればいいのだろうか。
「神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。」
「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」
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