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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

風通しのいい「教会」

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ヨハネ3:5-8

5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 

6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 

7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 

8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 

  フィレンツェの大聖堂のなかで、ある日本人の方に「ここは何をするところなの」という質問を受けた。キリスト教や歴史にはあまり興味を持っていない方なのだろうが、その素朴な質問について色々考えさせられてしまった。

 この質問をした方にとって、バジリカ様式の巨大な空間も、中央祭壇に向けて並べられた長椅子も、強烈な色彩を放つステンドグラスも、うす暗い空間に点々と灯された蝋燭の火も、「神への礼拝」という、人間の最も霊的な営みを実感するには役に立たないものだったのである。

 「教会」とは、イエス・キリストによって神を信じる人の集まりであり、霊から新しく生まれた者がキリストの名によって交わりを持つ、その「交わり」そのものである。しかしその交わりにおいて、「風は思いのままに吹いて」いるだろうか。そばにいる人は、「それがどこからきて、どこへ行くかわからない」かもしれないが、とにかく「その音を聞ける」ぐらい、私達の霊的交わりの「風通し」はいいだろうか。誰かが外から入ってきても、「風の音」を聞き、肌で感じることはできるだろうか。

 かえって人間的考え方や伝統的価値観によって建て上げられた重苦しい壁が、私達の霊的交わりを、外部からは遮断され閉塞感に満ちた息苦しいものにしていないだろうか。

 夕陽に照らされたアルノ川に架かるベッキオ橋の上に立つと、周囲の雑踏にもかかわらず、頬を撫でる春の風がとても心地よかった。