ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(4)
ヨハネ16:12-15
12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
御子がこの言葉を弟子たちに語っていた時点で、御子は「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」と言っている以上、13節の「あらゆる真理」が「御子が地上における公生涯において語り伝えた教えの全て」を指しているのではないことは明らかである。単純に言えば、御子は弟子たちにもっと多くのことを教えたかったが、弟子たちの弱さのゆえにそれができなかったからである。
それならば「あらゆる真理」とは何を指しているのだろうか。それは「御子自身」であり、「父なる神の御言」(この場合、文脈的には「旧約聖書の啓示の全て」のことだろうし、霊的適用するならば、より総括的な意味の「御子が御父から受けた言の全て」だろう。しかしこの場合も、御子は神の言ロゴスであるゆえに、ご自身のことを間接的に示しているとも言える)のことである。
ヨハネ14:6
6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
ヨハネ17:17
真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
ヨハネ1:1-2
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
この見解は御子自身の他の言葉からも確認できる。
ヨハネ15:26
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
ヨハネ5:39
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
さらに「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」という御子の約束を分析してみると興味深い要素が示される。
「(御霊が)来る」と和訳されている動詞【ἔλθῃ elthē】は、「アオリスト・接続法・能動相」であるので、「御霊が来る」という動作自体が重点が置かれ、「いつ」という時称のニュアンスは薄い。
対照的に「導く」【ὁδηγήσει】、「語る」【λαλήσει】、「聞く」【ἀκούσει】、「知らせる」【ἀναγγελεῖ】の動詞は、いずれも「未来・直説法・能動相」であるので、「御霊が来た、それ以降の未来の動作」を示している。そしてその未来に特に制限がない以上、御霊の動作は継続的に行われることを示しており、「使徒たちが新約聖書の各書を書き終わるまでの期間」とか「使徒たちが御子の公生涯において教えた全ての教えを宣べ伝えるまでの期間」と限定する文法的根拠は、この節には存在しない。
また「その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」と言って、「聞くところを語る」ことと「来るべき事を知らせる」ことを別に並記している点は興味深い。実際、使徒ヨハネが「来るべき事」の強烈な啓示を受け、「イエス・キリストの黙示」として書き記したのは、「御子が公的生涯の間に語ったことを聖霊の導きによって思い出して書いた」のではなく、老齢となった時(それはヤコブやペテロ、パウロなどの他のほとんどの使徒たちが地上の命を全うした大分後であった)、流刑の島パトモスで啓示を受け、それを書き記したのである。
黙示録1:1
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
黙示録1:17-19
17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
19 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。
この点からも「あらゆる真理」が「御子が地上における公生涯において語り伝えた教えの全て」を指しているのではないことは明らかである。