ヨハネの福音書の13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。
ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。(一部引用)
このような主張は、聖書的に正当性があるかどうか検証してみたい。まず中心的聖句をその前の聖句と共に検証してみよう。
12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
この文章そのものを読めば、御子イエスはその場にいた弟子たちに真理の聖霊がまだ来ていなかったために、その時点では多くの言葉を弟子たちに語ることができないが、ご自身が真理の聖霊を遣わすときにはその問題が解決することを明確に約束しているのである。つまり「12弟子たちが最後の晩餐の場で御子の言葉を直接聞いている」という、文脈上のメリットについて主張しておらず、むしろ強調している点はその時点では実現していなかった「真理の聖霊が来る時」と「その聖霊の働き」である。
それでは御子が啓示している「真理の聖霊が来る時」とは、いつのことを指しているのだろうか。御子が死から復活して怯え隠れていた弟子たちに「聖霊を受けなさい」といって息を吹きかけた時、という見解もある。
ヨハネ20:19-22
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
しかし以下の聖句などを読むと、御子が語っていたのは、死から復活し地上において40日間弟子たちに度々顕れていた時期のことでなく、天に引き上げられた後のこと、つまりペンテコステの時の聖霊の働きを指していたことがわかる。
ヨハネ16:7
しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
ルカ24:49
見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
使徒1:3-5;8-9
3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
そしてその御子の約束が成就し、実際に聖霊が下った時、最後の晩餐に参加していた12弟子たちだけでなく、120人近い人々が集まり、祈っていたのである。
使徒1:13-15a
13 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。
14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。
15a そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていた
使徒2:1-4
1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
そして聖霊を受けたペテロが、最後の晩餐において御子が約束した言葉の成就を証しし、聴衆がそれを目撃したことを語っている。実際、エルサレムの聴衆は「あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」と驚き、120人近い弟子たち(「みんなの者」「一同」に注目)が真理の聖霊によって神の大きな働きを宣べ伝えるのを聞いたのである。
使徒2:33
それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
ペテロはさらに、自分たちが受けた聖霊の賜物の約束が、12弟子たちだけに限定されたものではなく、「われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」と御霊に満たされて証しているのである。
使徒2:38-39
38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
そのペンテコステの日の聖霊の働きによって、3千人近くの人々が救われ、バプテスマを受けたとも書かれている。
使徒2:41
そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
さらに同じ使徒ペテロが、カイザリヤにいたローマ帝国の軍人コルネリオの家に福音を語るために訪れ、そこに聖霊が下った時、ペテロはそこにいた異邦人たちが「自分たちと同じように聖霊を受けた」と証しているのである。
使徒10:44-47
44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。
45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、
47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。
ペテロはエルサレムに戻って兄弟たちに報告をした時、御子によって約束され、実際に自分たちが受けた聖霊の賜物を、神が異邦人にも全く同じように与えてくださったのを見て、御子の約束の言葉を思い出したことを証した。
使徒11:15-17
15 そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。
16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。
17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。
それはまさに御子が最後の晩餐において約束した聖霊の働きの成就である。
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
父なる神が御子の名によって、ユダヤ人にも異邦人に対しても、信じる者皆に同じように聖霊を与えてくださった以上、その三位一体の神の約束「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」を、「この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません」と限定する根拠は全くないと言える。
聖霊は絶対主権者である神の位格であり、その方がご自身の性質に基づいて、信仰者の心の中でどのように働くべきか、私達が決定することではない。
Ⅰコリント12:11ー13
11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
Ⅱコリント4:13
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。
(2)に続く