an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書言語の神聖化

 ヘブライ語やギリシャ語を「聖域」に置く人々は、普段の祈りにおいて古代ヘブライ語やコイネーで祈っているのだろうか。自論に対して一貫性をもって生きるためには、必然的にそのような選択をする他ないだろう。

 そしてそのような彼らの祈りに対して、霊なる神は同じ古代ヘブライ語やコイネーで答えているのだろう。英語や日本語、イタリア語では祈りがうまく通じないから、聖書言語を使いなさい、と。人間が「聖書言語の神聖化」を受け入れる時、このような不条理な話が生じるのである。

 人間にご自身の霊と共に言葉を与えた主なる神は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じた神であり、その福音を信じた者がどう祈ればいいかわからない時、「言葉にあらわせない切なるうめきをもって執り成して下さる」聖霊を遣わしてくださった神である。

 そしてその主なる神は、世界中の小さな子供たちのたどたどしい祈りにも、読み書きを学ぶ機会なく年を重ねてしまった人々の祈りにも、悲しみと試練の中で声なき叫びをあげる人々にも、御子の尊き名によって答えてくださる神である。