an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ヨハネ16:13における真理の聖霊の約束に関する検証(3)

●文脈の重要性

この箇所は、最後の晩餐のときに、主イエスが十二弟子に語られたことの一部です。ヨハネの福音書の13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。

ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。

主イエスは、後になると十二弟子が、新約聖書を書くことになったり、教会の土台となる教えを担うようになる(エペソ2:20)ことを想定して、この御言葉を語りました。敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。

つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。

(一部引用)

 御子が最後の晩餐の間に啓示した聖霊についての教えを以下に抜粋してみよう。ちなみに「助け主」と和訳されている【παράκλητος paraklētos】は、「仲裁者、慰める者、弁護人」という意味で、「もうひとりの助け主」(新改訳)とあるように、御子の代わりに御子の働きをする方のことを指している。

ヨハネ14:16-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 

ヨハネ14:24-26

24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。

25 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 

ヨハネ15:26-27

26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

ヨハネ16:7-8

7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。

ヨハネ16:12-15

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

 これらの教えの文脈は同じであるから、一つ一つは互いに補完して全体を構成するものであると言える。つまり「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り」(ヨハネ13:1)、ご自身の代わりに聖霊を遣わすことを約束し、その聖霊の働きについて予め、様々の観点で啓示しているのである。

  • 永続的な内在: いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
  • 御子のことば、つまり父なる神のことばを思い出させる:あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
  • 御子について証しをする:それはわたしについてあかしをするであろう。
  • 人間の罪と神の義と裁きについて世に示す:罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
  • あらゆる真理に導き、来るべきことを啓示する:あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
  • 御子の栄光について啓示し、御子に栄光を帰す:わたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

  一つ一つの言葉について丹念に探究したくなる箇所だと思うが、核心的なテーマは、御子の代わりに遣わされる聖霊は、父なる神から地上に遣わされた御子自身のことを証しし、彼の言葉をそのまま伝え、御子の栄光を示すから、「真理の聖霊」と呼ばれていることである。なぜなら御子自身が真理であり、その御子についてそのまま証しするからである。

 同じ文脈において御子がご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と啓示しているのは偶然ではない。 

ヨハネ14:6

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  

 つまり「真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」とある時、それは単に「私達が聖書に書かれたことから抜粋したイエス・キリストの教えの数々」を対象にしているのでなく、「信仰者が歩むべき道」であり、「信仰者を罪から解放する真理」であり、「信仰者を革新しつづける命」である御子イエス・キリストその方自身のことが対象なのである。

 というのは、人間の宗教心は多くの場合、「神のことば」と「御子のいのち」を別々なものとして扱おうとする傾向があるからである。当時の最も宗教的に熱心なカテゴリーに属していたユダヤ人の律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書やそこから派生した様々な教えを入念に調べ、記憶し、適用しようとしていた。

 しかし御子はそのような人々に欠けていた決定的な点について明確に指摘している。

ヨハネ5:39-40

39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 

  まさに御子において「この言に命があった。」「言は肉体となった」(ヨハネ1:4;14)のである。

 私達人間がアダムから受け継いだ性質は、「いのちの木の実」ではなく「善悪の知識の木の実」を食べようとする。「いのち」から離れた「知識」で満たされようとする。御子イエス自身のいのちのうちに、「知恵と知識との宝がいっさい隠されている」(コロサイ2:3)にもかかわらず、である。

 指摘されているようなキリスト教会内での教理的不一致の問題の根源には、この「御子のいのち」と「神のことば」を別々に捉え、扱っていることがあり、まさしく「真理の御霊が全ての信仰者をあらゆる真理に導いてくれる」「真理の聖霊が御子を証しする」という約束に対して、全幅の信頼を置き、祈りの中で真理の聖霊の導きと光を待つ信仰が、私達の教会に不足しているからではないだろうか。