黙示録1:1-3
1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
2 ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。
3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
黙示録3:10-11
10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
黙示録22:6,7,10,12,20
6 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
7 見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
10 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
「すぐにも起るべきこと」
「時が近づいている」
「わたしは、すぐに来る」
聖書の一番最後の書『黙示録』の中で、主イエスの再臨が切迫していることを示す表現が何度も繰り返されている。最終章である22章に至っては、「わたしはすぐ来る」と三度も繰り返されている。
多くの年月を福音宣教のために費やし、迫害によって流刑の地パトモス島にいた使徒ヨハネを納得させるためには、主の日の幻は十分ではなかったのだろうか。それでも主イエスは、まるでヨハネの心の最も深いところに刻み込むかのように、「私はすぐ来る」と何度も繰り返しているのである。
使徒パウロの心も、同じように切迫した時を感じていたことが証されている。
ローマ13:11-12
11 なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
12 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
Ⅰコリント7:29
兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
テサロニケの信徒たちに「主の来臨の時まで自分たちは生きながらえて残る」とさえ書いている。
Ⅰテサロニケ4:15
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
自ら「その日、その時は、誰も知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)と言っていたのに、御子イエスは「わたしはすぐ来る」と言って、使徒ヨハネの心を無意味に焦らせたかったのだろうか。ヨハネが若かったときに、自らの来臨の時までヨハネが生き残っていることを望んでいると言ったのは、根拠のない個人的な願望に過ぎなかったのだろうか。
ヨハネ21:22
イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
そして使徒ヨハネに「私はすぐ来る」と言ってから1900年近く経ったが、主イエスは間違っていたのだろうか。
使徒ペテロの手紙によれば、この主の来臨の「遅れ」は、人類の悔い改めのため、救いのためだと書かれている。
Ⅱペテロ3:3-9
3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
自分では「すぐに来たい。国々に対して神の正義を示したい。愛する花嫁(教会)を迎え入れたい」と強烈に願いながらも、現在に至るまで頑なになっている人々も含めて全ての者が悔い改めに至ることを望み、唯一「時」を知る父なる神の御心にすべてを委ね、ながく忍耐しておられる。私たちは、ここにも「十字架の相」、一瞬一瞬における神のパッションを見出すのである。