終末論の詳細に対する関心について
Ⅰテサロニケ4:13-18
13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
D.A. Carson氏はその著書『Exgetical Fallacies』(2004)において、「何と多くの福音派神学者(特に北アメリカにおいて)が、Ⅰテサロニケ4:13-18は教会携挙が大患難期の前か後かを教え、もしくは想定しているかを問うことに甚大な労力を費やしていることだろうか。この聖句を書いた時の使徒パウロの関心は、そのような問いかけからは全く遠く離れているのに、である」(3.7 Question framing)と書いている。
勿論、この抜粋した聖句「Pericope(原義 A cutting out)」だけを切り出して考えれば、確かにこの箇所は「地上の生を終えた信仰者の復活」について、テサロニケの信徒たちに書いている。
しかしこの後の第五章を続けて読むと、その信仰者の復活が起きる時期と場合について言及されており、何と使徒パウロはそれについては「書き送る必要はない」とあっさりと書いているのである。なぜ書き送る必要がないと判断したのだろうか。それはテサロニケの信徒たちは、主の日の到来について使徒パウロから直接聞いて、すでによく知っていたからである。少なくとも、教師としてパウロはそのように認識していたのである。(→この部分に関して追記にて訂正)
Ⅰテサロニケ5:1-11
1 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。
2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
4 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
5 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
6 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
8 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
9 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
10 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
11 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
同じ認識が『Ⅱテサロニケびとへの手紙』の終末論の箇所においても記述されている。
Ⅱテサロニケ2:1-6
1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。
2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。
3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。
4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
5 わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。
6 そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。
「わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり・・・」
つまりテサロニケの信徒たちは、使徒パウロが自分たちの町に滞在中に、主の日に関する教えを繰り返し教えたことによって、反キリストのことについてまでよく「知っていた」である。使徒パウロがテサロニケに滞在したのは約三週間だけだった(使徒17:1-10参照)ことを考えると、その教えの質は驚くべきことである。
残念ながら私たちの町には、使徒パウロはいない。そして終末論について熱心に繰り返して教えるパウロのような教師は非常に数限られているかもしれない。しかし現代の私たちは、二千年近く前のテサロニケの人々が持っていなかったものを持っている。それは旧約三十九巻、新約二十七巻によって構成された「聖書」である。だからこそ、聖霊の導きと光を祈り求めながら、聖書の様々な個所を繰り返し研究し、「これからすぐ起こること」を知ろうとするのである。
ダニエル12:4
ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。
黙示録1:1-3
1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
2 ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。
3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
黙示録22:6-7
6 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
7 見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
確かに私たちは些細な事に囚われ、重要な点を見失いがちである。それでも使徒パウロが繰り返し教えよく知っていたはずのテサロニケの人々に、さらに手紙で書き送る程重要なテーマに関して、それを調べようとする私たちの心を、聖霊は蔑ろにすることはないだろう。むしろその導きによって、その中に隠されている「天の宝」を見つけ出し、大事に守る心を与えてくれるだろう。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
追記(2017年12月9日)
私の文章だと、まるで使徒パウロは復活の時期についてテサロニケの信徒たちに予言していたので、敢えて書き送る必要はない、と主張していると誤解されるかもしれないが、使徒パウロはキリスト教会史のなかで度々現れるような、「再臨の日時を告げる」ことをしていたという意味ではない。現実はその逆で、「主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」、つまり誰もその時期を知ることはできない、と繰り返し教えていたのである。
だからこそ、「あなたがた自身がよく知っているとおり」と言っているのである。