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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

第五の封印(2):祭壇の下にいる霊魂

黙示録6:9-11

9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。

10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。

11 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。 

 聖書が啓示する神の被造物としての人間は、霊と魂と肉体という三つの要素によって構成された存在である。

Ⅰテサロニケ5:23(新改訳)

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

 「天の祭壇の下にいる、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂(ψυχή psuchē)」

 使徒ヨハネが天の祭壇の下にいるの見た「魂」は、地上の生において神の言葉を証した故に殺された人々が、肉体を離れ、霊の次元である神の御前に導かれていたものだった。「祭壇の下」という象徴的な位置も、使徒パウロの言葉が暗示しているように、神の証しのために自らの命を捧げたことを示している。

ピリピ2:17

そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。 

 「白い衣が与えられた」ということは、地上の生において最後まで信仰を守り通し、勝利したと主なる神に認められた、ということである(黙示録3:4-5参照)。

  興味深い点は、これらの殉教者の魂に対して、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」という言葉がかけられたことである。これはつまり、神はその計画の中で殉教者の数をあらかじめ定めている、ということになる。言葉は悪いが、その「定員数」に到達するまで、これらの殉教者は休息するに命じられているのである。

 この休息の言葉は、七章に登場する、同じように白い衣を着た、「あらゆる国民、部族、民族、国語の、数えきれないほどの大群衆」の、命に満ち、エネルギッシュな奉仕(「昼も夜もその聖所で神に仕えている」)によって主に仕えているイメージと大分異なる。

黙示録7:9-15

9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、

10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。

11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、

12  アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。

14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。 

 この御座と子羊の前で仕えている「あらゆる国民、部族、民族、国語の、数えきれないほどの大群衆」と 、「天の祭壇の下にいる、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂」は異なるグループなのではないと私は解釈している。

 また天の祭壇の下にいるこれらの殉教者の霊魂が、「いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」と訴えており、また「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまでもうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡されているということは、この時点ではまだ「主の日」、つまり「神の裁きの日」「神の報復の日」が地上において始まっていないことを暗示している。

 実際、地上において「神と子羊の御怒りの大いなる日」の訪れを地上に残された人々が認識するのは、第六の封印が解かれた後だからである。

黙示録6:15-17

15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。

16 そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

 そして使徒パウロによる啓示に照らし合わせると、この時点ではもうすでに反キリストが地上に現れていることも確かである。その邪悪な活動がピークを迎えるのはもう少し後のようだが。

Ⅱテサロニケ2:2-3(新改訳)

2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数」の中に、反キリストによる大迫害下に殉教する人々、つまり黙示録20章に記述されている「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち」「獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった者の魂」も含まれているのかどうか、判断が難しいところである。

黙示録20:4-6(口語訳)

4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 

5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。

6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

20:4(新共同訳)

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

 この箇所でも、多くの座に座って裁くことが許された人々と、反キリストの迫害によって殉教した人々が別のグループとして表現されている。

ダニエル7:9

9 わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。

22(新改訳) しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。  

 もし大患難期に反キリストの迫害によって殉教した人々が含まれている場合、祭壇の下で休んでいるように命じられた霊魂は、キリストの地上来臨の時までその状態に留まることを暗示し、来臨と共に復活し、キリストと共に千年王国において統治することになる。

 私が教会の携挙(空中来臨)の際の復活と、地上来臨の際の復活と時期も対象も異なるのではないか、と考えるのはそのためである。

Ⅰテサロニケ4:13-17

13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。

15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

 しかしこの私の考えは、修正のマージンをかなり持っているもので、今の段階では残念ながら確信的な解釈ではない。

 

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