天からの声(1)
マタイ3:16-17
16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
マタイ17:1-6
1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
ヨハネ12:27-29
27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
御子イエス・キリストの公生涯の期間において、少なくても三度、天からの声があったことが福音書に記録されている。もしかするとそれ以外に機会があったのかもしれないが、やはり聖霊によって書き記されていることを基に考察したいと思う。
一度目は、御子がヨルダン川で浸礼を受けた直後のことで、それは「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という天からの声であった。「私の愛する子」という表現によって、その天からの声が、「父なる神の声」であったことが理解できる。
二度目は所謂『山上の変容』と呼ばれるエピソードにおけるもので、御子が三人の弟子たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて高い山に登った時、輝く雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」という声があったことが記録されている。
使徒ペテロは三十年以上経て、晩年にこのエピソードを思い出しているぐらいだから、それは本当に強烈な体験だったことだろう。
Ⅱペテロ1:16-18
16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。
17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
ペテロは「天から出た声」と表現しているので、マタイが言うところの「輝く雲の中から声」は、「上から聞こえてきた声」と感じたのだろう。
興味深い点は、マタイは記録しているのになぜかペテロ自身は省略している「これに聞け」という命令である。というのも、これらのエピソードが証明しているように、天なる神は望むなら他に何度でも、様々な状況で天からその御声を聞かせ続けることもできたはずだからである。
そもそもご自身の真理を啓示するのに、御使いも預言者も使うことなく、また御子を地上の遣わすこともなく、超自然的方法でダイレクトに天から語ることもできたはずである。
しかし父なる神は、御子に肉体を与え、罪人の間に遣わし、御子を通してこの世に語り、御子を通してご自身の栄光を顕わし、御子の死を通して信じる者を救い方法を選ばれたのである。
へブル1:1-3
1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
(2)へ続く