an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書ってナニ?

 もしあなたの心の中にとても大切な思いがあり、それを自分の愛する人々、特に今はまだ幼い子供や孫に伝えたいと願い、しかもあなたにそれを書き残す能力があるとしたら、寝る時間を惜しんでもそれを書き残そうと思うだろう。思い残しのないよう綿密に書き、その文書を安全かつ確実に保管できる方法を探すであろう。

 なぜイエス・キリストは、自分で真理を書き残さなかったのだろうか。時間がなかったからか。神の言葉であり、真理であり、ラザロを甦らせたイエスなら、その必要や意志があったなら、何の問題もなく全ての真理を自らの手で書き残していただろう。あるいは、何人かの弟子たちを選び、彼らに知恵を与え、書記として随時言動を正確に記録させることもできたはずである。十分にできたはずなのに、それを実行しなかったとすれば、その意志がなかったからである。

 イエスは、もともと取税人や漁師、医師だった人たちが、十年以上後にその記録を残す、という手段を選ばれた。ルカに至っては、イエスが地上で行動したのを実際に見たことはなかったにも関わらず、神は彼を選び、福音書と使徒行伝を書かせた。しかし、イエスはこの非常に重要な任務を一人の人間の知的能力に委ねきったわけではなかった。彼は自分の代わりに最も信頼できる者を「派遣」したのである。

ヨハネ14:26 

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 

ヨハネ15:26

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

ヨハネ16:13,14

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 

 しかし、三位一体の第三神格である聖霊が筆記者を霊感によって導いたのであって、筆記者が聖霊の知恵を利用したのではない。聖霊は、人間が教義として扱いやすいように組織神学の本を残さなかった。箇条書きの教義書も残さなかった。新約聖書においてはその半数以上を「手紙」という形式で書くように霊感されたのである。

Ⅱテモテ3:16,17

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 

17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。  

  しかも、神は原本が残ることが重要だと考えず、その数々の写本を残された。しかも句読点もない大文字だけのギリシャ語から、ラテン語に始まって様々な言語に翻訳した形で真理が伝達されることをよしとされた。正典の制定も曖昧なままに。

 神が人類に聖書を残したのは、聖書学という科目で「大学入試センター試験」をするためではない。「資格科目筆記試験」を課そうと考えているわけでもない。神は「聖書を知っている人」を求めているのではなく、ただ「聖書に生きる人」を求めているのである。

 神の前での「面接試験」を通り、「資格」を獲得するためには、聖書が何であるか、そして何を自分に求めているか、どう働きかけてくるのか、絶えず確認し続ける必要がある。