an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

日常生活の中のしるし

ヨハネ21:12-14

12  イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。 

13  イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 

14  イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。  

  イエスが共にいて、パンをさいている。弟子たちにとっては、見慣れた状況である。弟子たちはそれまで、三年間毎日寝食を共にし、イエスに従ってきたのだ。イエスが食事の席で隣にいて、パンを割き、弟子たちに与えることは日常的なものだった。しかし、この朝は何かが決定的に違っていた。パンを割く手に釘の跡がはっきりとあるのである。イエスは、ご自身の復活した姿を弟子たちに初めて示した時や、失望していたトマスの前に現れた時と異なり、その十字架の傷跡について語らない。とても静かな朝の時間が流れている。しかし、確かにパンを割く手には傷跡があるのだ。

 そしてイエスはペテロに三度聞いた。「あなたはわたしを愛するか」と。その傷跡を目の前にして、どうしたらペテロはイエスへの「愛」を誇れただろうか。しかしまた、どうしたら「愛していません」と言えただろうか。

 さらにイエスはペテロに命じた。「わたしの小羊を養いなさい」「わたしに従ってきなさい」と。その傷跡を目の前にして、どうしたらペテロは「NO」と言えただろうか。どうしたら喜んで従わないことができただろうか。

  使徒ペテロは、年老いてもこの傷跡について忘れてはいなかった。

Ⅰペテロ2:22-24

22  キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 

23  ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 

24  さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

 私たちは、日常生活の中で、日常的に聖書を読み、日常的に祈り、なにげなく教会の礼拝に参加しているかもしれない。しかし、このような日常的な信仰生活の中で、今一度、目の前に啓示されているキリストの傷跡について、心を開いていこう。「あなたはわたしを愛するか」という静かな問いかけに、応えていこう。「私に従ってきなさい」という召しの声に、今一歩踏み出そう。

Ⅱコリント5:13-15

13  もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 

14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 

15  そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。