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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

安息日に関する検証(13)各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

ローマ14:1-12

1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。

7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。

8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

10 それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

11 すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。

12 だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 

 もし使徒パウロが元パリサイ派のユダヤ人として、新生した後も安息日を尊守することが神の御心であり、それを実践し、そして諸教会に教えていたとすれば、以下のような選択的な言葉をローマの教会に書き送ることは決してなかっただろう。

また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。

 ローマの教会を構成していたユダヤ人信仰者もローマ人信仰者、もしくは市民権をもっていなかった奴隷の信仰者も、各自の確信に基づいて、「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える」自由が保証されていたのである。

 そしてこの自由は、当時のローマの教会のみならず、現代においても世界各地の信仰者に対して与えられている自由である。だから「安息日の教え」に関して、現代の信仰者は同じように各自の確信に基づいて主のために選択し、実践すべきだろう。

  • 各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
  • だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
  • わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。
  • すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう
  • わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 

 これらの言葉は、私たち信仰者の一人一人に、選択の自由と共に個人的な責任が与えられていることが示されている。つまり誰かに教えられたから半信半疑で従うというのではなく、聖書の啓示に従って個人的に確信を求め、その確信を基に主の御前で仕えていくという責任である。

 

追記(2017年5月23日)

 土曜日を安息日として尊守するべきという見解の人々に中で、「パウロは、ここで論じているのは、食べ物のことについてである。さらに、17、21節にも飲食について論じている。1節から始まった文脈の連続で、その中に日のことまで言及しているのは第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。」と主張する人々がいる。文脈上、律法に関する食事の規定を語っているのだから、律法に基づく安息日に関して語っているのであって、「第七日目の安息日」についてではない、という意見である。

 まずその人々が勧めているように、文脈を読むと、13:8-10の「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」の「愛は律法を全うする」という大きな主題があることがわかる。  

 その主題の文脈において、14章は「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。」と始まり、15章も「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」と続いているわけである。  

 その文脈の中で、具体的に注意すべき要素として「食べ物に関する規定」や「日に対する尊守」であるわけだから、食事に関する規定について使徒パウロがより多くの言葉を費やしていても、それが他の要素を否定したり、取り消したりすることにはならない。  

 実際、14節には「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。」とあり、飲食に関することだけでなく、「そのほか」についても兄弟を躓かせないように注意を促している。この「その他」のことに「日に関する規定」や律法の他の規定が包括されているので、「14章は食事のことについて語っているのであって、安息日についてではない」という主張は根拠に欠けると言える。

 また「日に関する規定」が、律法の祭儀に関わる安息日に関して語っているのであって、「第七日の安息日」に関するものではない、という主張に関してであるが、そもそも主なる神は万物創造の七日目に、アダムとエバに「第七日の安息日」を守れという命令をしておらず、アダムからモーセの時代まで「第七日目の安息日」を守ったという記述もない。モーセの律法によって「第七日目の休息」を根拠に初めて安息日がイスラエルの民に対して定められてのだから、ローマ14:5に関して「第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。」という主張は、自分勝手な都合によって「安息日」を再定義している詭弁である。

 

関連記事:

安息日に関する考察(12)主イエスと使徒パウロ

マタイ12:9-10

9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。

10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。

マルコ1:21

それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。

マルコ6:1-2

1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。

2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。

ルカ4:16

それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。

 ルカ4:31

それから、イエスはガリラヤの町カペナウムに下って行かれた。そして安息日になると、人々をお教えになったが、

ルカ13:10-11

10 安息日に、ある会堂で教えておられると、

11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。 

 これらの聖句は、主イエスが地上の生涯において安息日に会堂の礼拝に参加していたことを示している。人間的な観点で言えば、御子は一人のユダヤ人であったのだから、神とイスラエルの民との契約のしるしとして尊守するように律法が命じていた安息日に、他のユダヤ人たちと共に礼拝に参加していたのは当然であろう。

 また救済論的観点から言えば、律法の下に閉じ込められていた契約の民を贖い出すために、そしてその律法を十字架の死によって完全に成就するために人となられてこの世界に来られたのだから何の矛盾もない。

マタイ5:17-18

17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

ガラテヤ4:4-5

4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。

 しかしそのような神の永遠の贖いの計画も、そのために遣わされていた御子のアイデンティティーに関しても受け入れていなかった律法学者やパリサイ人らは、御子が安息日に人々を病気や罪の束縛から解放していたのを見て、「安息日を守っていない」と断罪し、さらに殺意をもつまで憎んだ。

ヨハネ9:16

そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。

ヨハネ5:16-18

16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。 

 18節は注意して読むと、驚くべき表現を使っている。「イエスが安息日を破られたばかりでなく」。当然、ユダヤ人たちの観点からの見解であることは間違いないが、筆者であり、主イエスの弟子であったヨハネは、「ユダヤ人たちは、イエスが安息日を破ったと思い、・・・殺そうと計るようになった」と書けたはずである。

 同じような意外な表現は、御子自身も使っている。

マタイ12:5

また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。 

 ここでは御子自身が、安息日に宮仕えをしていた祭司たちは「安息日を破っている」が、罪には問われない、と言っているのである。ここで「破る」と和訳されている動詞【βεβηλόω bebēloō】は、「・・・を冒涜する、神聖を穢す」という意味を持つ。テルトロがローマ総督ぺリクスの前で、使徒パウロを訴えた時に使った、非常に強い言葉である。

使徒24:6

この者が宮までも汚そうとしていたので、わたしたちは彼を捕縛したのです。〔そして、律法にしたがって、さばこうとしていたところ、 

 マタイもヨハネも、もし初代教会の十二使徒たちが安息日の尊守を教会に教えていたら、絶対に書き残さなった表現だろう。つまりこれは初代教会が、律法における安息日の戒律に対して距離を置いた位置にいたことを暗示している。

 実際、エルサレムで開かれた初代教会の会議における決定事項の中には、「各地で安息日毎に会堂に集まって、モーセの律法を朗読しているユダヤ人たちに躓きを与えないために、各教会が守るべき4つの条件」の中に、「安息日の尊守」という条件はない。

使徒15:19-21

19 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。

20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。 

 「ユダヤ人は律法に従って安息日に会堂に集まって、モーセの律法を朗読し、礼拝を捧げているのだから、各教会もユダヤ人に倣って安息日を尊守すべきである」とは命じなかった。

 使徒パウロたちが宣教旅行の際に安息日に会堂に行っていたことを理由に、「使徒パウロは安息日を守っていた」と主張する意見がある。

使徒13:13-14

13 パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。

14 しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

使徒17:1-3

1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。

2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、

3 キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。

使徒18:4

パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

 しかし使徒パウロたちは、キリストの福音をまずユダヤ人に伝えるという宣教の原則に従って、宣教していたのである。

ヨハネ4:22

あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである

ルカ24:47

そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

使徒1:8

ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

使徒13:46

パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。 

 興味深い事例がある。使徒パウロたちがローマの植民都市ピリピに訪れた時、安息日だったがその町には会堂がなかったので、おそらく祈りのために集まっているだろう人々を探して、町の近くを流れている川辺に行ったことである。

使徒16:12ー13

12 そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。

13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。 

  ユダヤ人が会堂のない町に住むことは禁じられていたのだから、もし使徒パウロが安息日を尊守していたとしたら、安息日に会堂のないピリピに残り、しかも川辺まで探しに行ったこと自体、妙な話である。この事例は、使徒パウロたちが失われた魂を探し、御言葉を伝えることを何よりも優先にしていたことを示している。

 また当時の会堂は、旅人に寝泊まりする場所(それは会堂の隅やベンチであったりした)を提供していたのだから、ユダヤ人として使徒パウロが宣教に利用していたのは当然だろう。

 エペソのおいて三か月の間、パウロの伝道によって聖霊の満たしを受けた12人の信徒らと共に、会堂のユダヤ人たちに福音を伝えていたが、彼らが頑なに受け入れず信じようとしなかったので、パウロは弟子たちを連れて会堂から離れ、ツラノの講堂という一種の学校の施設を借りて、特定の日だけでなく「毎日」福音宣教に専念した。

使徒19:1-10

1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、

2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。

3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。

4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。

5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。

6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。

7 その人たちはみんなで十二人ほどであった。

8 それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。

9 ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた

10 それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。 

 つまり使徒パウロが安息日に会堂に行っていたのは、福音宣教が目的であったからで、「律法の下にいるユダヤ人の同胞」を何とか救いたいという願いからくるものだったのである。

Ⅰコリント9:19-23

19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。

20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである

21 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

23 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 

 

追記1(2017/05/10)

使徒20:7

週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。 

 安息日の尊守を主張する人の中には、この聖句の「週の初めの日」の「初め」と和訳されている原語【μία mia】の正しい訳は、「初め first」ではなく「ひとつ one」であると主張し、【μια των σαββατων】は「one of the Sabbaths」と訳すのが正しいとする。

 しかしここでの【σαββατων】が複数形なのは、へブル・アラム語的用法で「安息日と安息日の間、つまり週、もしくは集合名詞的用法の安息日」というニュアンスをもつ。さらにこの文脈において【μία mia】の前に定冠詞【τη】がついているので、やはり「週の初めの日」という訳が妥当である。

 また前後の文を読んでみると、「one of the Sabbaths」という訳が適切でないことがわかる。

使徒20:4-7;11

4 プロの子であるエペソ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。

5 この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを待っていた。

6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した

7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
11 そして、また上がって行って、パンをさいて食べてから、明けがたまで長いあいだ人々と語り合って、ついに出発した。 

 もし使徒パウロがトロアスに何週間とか何か月も滞在していたとしたら、「多くの安息日の中のある安息日」というニュアンスも使うことができたかもしれないが、使徒は7日間しか滞在しなかったのである。

 だからこの節をもって、「使徒パウロは安息日を尊守していたから、私たちも同じように尊守しなければならない」という主張には文法的観点でも文脈的にも根拠はない。

 さらにほとんど全ての英訳や和訳聖書が、「And on the first day of the week」「週の初めの日」と訳しているのに対して(こちらのサイトで確認できる)、「翻訳が間違っている」と断定してしまうのは、非常に危険な姿勢だと言える。

 ちなみに私が調べた範囲では、「one of the Sabbaths」と訳している英訳バージョンは、Adolph Ernest KnochによるCLV(Concordante Literal Version)しか見つけられなかった。Good News Translationは、「On Saturday evening」と訳している。イタリア語や日本語の翻訳聖書においては、全く存在しない。

 このCLVバージョンのAdolph Ernest Knochは、地獄を否定したり、御子が父なる神と同等の神性をもつことを否定したりして、そのまま受け入れるには多くの教義的問題を抱えていると思われる。

 

追記2(2017年5月23日)

 使徒パウロがもし諸教会に安息日を尊守するように教えていたとしたら、ガラテヤ教会に対して書いた手紙において、以下のような表現は決して使わなかっただろう。

ガラテヤ4:8-11

8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。

9 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。

10 あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。

11 わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。 

 もしガラテヤの信徒たちが「日(安息日)や月(新月)や季節(各種の祭)や年(安息年)などを守っている」ことを、使徒が肯定的にとらえていたら、ガラテヤ教会に対する自分の働きを「無駄になったのではないか」と心配したり、ガラテヤの信徒たちを「奴隷になろうとしている」とは決して言わなかったはずである。これは使徒パウロが安息日や新月、各種の祭、安息年などを尊守する必要がないと教えていたことを明示している。

 

(13)へ続く

安息日に関する考察(11)会堂司の教訓

ルカ13:10-17

10 安息日に、ある会堂で教えておられると、

11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。

12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、

13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。

14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。

15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。

16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。

17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。 

 御子イエスが安息日に会堂にいた一人の女性の病気を癒したのを見た会堂司が、憤って群衆に言い放った言葉は、御子イエスに対する人間の無知と傲慢を強烈に表している。

「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。

 確かにこの会堂司は一つの社会的・宗教的共同体の責任者としての民に対して権威を授けられていた者だった。しかし「神殿よりも会堂よりも大いなる者」「安息日の主」である御子の前には、「安息日に何をすべきか、またはしてはならないか」とか「主がいつ癒しの奇蹟を行うべきか」を取り仕切る権威など与えられていなかったはずである。

 会堂司自身が病気を癒す神の力によって、癒しを行っていたのだろうか。彼は「安息日の主」であったのだろうか。御子が「偽善者たち」と呼んだのは当然だろう。

 そしてそのような偽善者であっても、安息日には自分たちの家畜を解放し、水を飲ませたりするのに、なぜ創造主であり、安息日の主である御子が自らの権威によって病気を癒したことを裁くのか、と指摘しているのである。

「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」

 そのサタンの束縛を解く力もその思いさえも持ち合わせていなかった人々に対する強烈な皮肉である。実際、「イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った」。

ヨハネ5:15-17

15 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。

16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

マタイ28:18-20

18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。  

 あらゆる権威を持ち、世の終わりまでいつも私たちの共におり、今もその無限の力で働いておられる主イエスの憐みの心と働きに対して、私たちは会堂司のように自分たちの信念や偏見、宗教的権威によって「いつ、どこで、どのように」を取り仕切ろうとしていないだろうか。今一度省みて、自由の霊によって主なる神の力強い御業に委ねてみよう。そしてこのエピソードの群衆のように「こぞって、イエスがなされるすべてのすばらしいみわざを見て喜び」、主の御名を賛美し続けよう。 

 

(12)へ続く

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安息日に関する考察(10)人の子は安息日の主である。

マタイ12:1-8

1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。

4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

8 人の子は安息日の主である」。 

  主イエスの弟子たちが空腹を感じ、偶々通った麦畑の穂を摘んで食べたのを見て、パリサイびとたちは主イエスに抗議した。おそらく、主イエスや弟子たちが律法を尊守しているかどうかを確認するために一同に付きまとい、誰かが律法の戒律に違反するのを見つけ批判する機会を今か今かと窺っていたのだろう。想像するだけでうんざりする状況である。

 しかし興味深い点は、そのパリサイ人らの批判に対する御子の反論において、マタイは他の共観福音書(マルコとルカ)にはない要素を記述していることである。

 実際に読み比べて、確認してみよう。

マルコ2:23-28

23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。

24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。

25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。

26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

ルカ6:1-5

1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。

2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。

3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。

4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。 

  まずどの共観福音書も、当時イスラエルの王であったダビデが、祭司の町ノブへ行った時、祭司アヒメレクから本来聖別された祭司たちしか食べることが許されていなかった聖なるパンを受け取って食べたエピソードを引用している。

Ⅰサムエル2:1-6

1 ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。

2 ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。

3 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。

4 祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。

5 ダビデは祭司に答えた、「わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか」。

6 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下さげたものである。 

 そしてどの共観福音書にもダビデが「神の家にはいって」と書いてあるが、当時はまだエルサレムの神殿が建造されていなかったし、神の契約の箱はキリアテ・ヤリムのアブナダブの家に20年近く置かれ、エルサレムに移されたのはこのエピソードよりも後のこと(Ⅰサムエル7:1-2とⅡサムエル6:1-3;Ⅰ歴代13:5-7参照)だから、祭司の町ノブにはおそらく神の幕屋だけが配置されていたのではないかと思う。

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 いずれにせよ、ダビデは祭司たち以外は王でさえも本来入ることが許されていなかった神の幕屋の中に入り、しかも聖別された祭司たちが聖所の中でしか食べることができなかった「いと聖なるパン」を食べ、供の者たちにも与えたのである。

レビ記24:5-9

5 あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。

6 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。

7 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。

8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。

9 これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」 

 そのエピソードに加えて、御子イエスは祭司たちが安息日においても天幕や神殿の中で奉仕するように律法が命じていたことを根拠に挙げて、弟子たちに罪がないことを主張している。

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

8 人の子は安息日の主である。

 特に「宮よりも大いなる者がここにいる」という御子の言葉は、このエピソード全体を理解する鍵である。つまり御子は、自分が律法によって造られた神殿よりもはるかに権威がある「人の子」、つまり約束されていた「ダビデの子」「神のメシア」「主」であり、弟子たちはその「宮よりも大いなる者」に仕えるために聖別された祭司たちであるという考えが前提にあるわけである。

 だからこそ、モーセの律法による祭司たちが安息日において奉仕しても罪には問われなかったように、主イエスに仕える弟子たちは安息日に奉仕しても罪に問われないと主張しているのである。

 同じようにダビデ王が神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えても罪に問われなかったように、「ダビデの子なるイスラエルの王メシア」「アロンよりも偉大な大祭司」であるイエス・キリストは、自分に仕えている弟子たちが安息日の戒律を破って麦の穂を摘んだとしても、罪には定めない、と宣言しているのである。なぜなら、御子は律法による宮よりも、安息日よりも権威をもっている主だからである。

 ここで御子が証している「宮よりも大いなる者」「安息日の主」という啓示に関しては、『へブルびとへの手紙』の1章から10章までを読むと、より明確になると思う。そこでは、御子が御使いよりも、預言者モーセよりも、大祭司アロンよりも偉大であり、その御子による新しい契約は律法による契約よりも優れ、その幕屋は地ではなく天に属し、そのいけにえは律法で定められていた動物のいけにえより遥かに優れていることが啓示されている。

 

(11)へ続く

 

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安息日に関する考察(9)イザヤ66章の預言

イザヤ66:15-24

15 見よ、主は火の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。

16 主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。

17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。

19 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。

20 彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。

21 「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。

22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。

23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。

24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。

  安息日の尊守を主張する立場で、上の22節と23節を引用して、「新しい天と新しい地においても安息日が守られている」とする意見がある。しかしここでは、あくまで「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」つまり「新しい天と新しい地が永遠のように、イスラエルの名も永遠に残る」と言っているのであって、「新しい天と新しい地において、安息日ごとにすべての人はわが前に来て礼拝する」とは書かれていないからである。

 それは「新しい天と新しい地」という時期の性質を考えてみると理解できる。つまりその時代は永遠の状態に入っており、現在のように時間や空間に制限されていないからである。実際、新しい天と新しい地は太陽や月を必要とせず、そこでの礼拝は天体の動きに条件付けられるものではないことが啓示されている。

黙示録21:1-4;22-27

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。

23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。

25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。

26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。

27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

黙示録22:3-5

3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、

4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 イザヤ66章の15節と16節は、主の地上再臨によって諸国が裁かれる出来事を思い起こす。そして24節は、新しい天と新しい地の創造がはじまる前におきる、「第二の死」と呼ばれる神の最終的な裁きの啓示を思い出させる。

黙示録20:11-15

11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 

黙示録21:8

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。 

 これらの点を考慮すると、「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」という預言は、キリストの地上再臨によってはじまる千年王国の期間について語っている、と解釈するのが適していると思われる。

 ただ「千年王国」の成就の預言に関して、第一の復活によって栄光ある体を受けた聖徒らによる統治と、復興されると思われる神殿祭儀との関係は、理解し難い点が非常に多く、生物や生存環境に抜本的変化があるところにおける「安息日」が、現在私たちが考えるところの「安息日」と一致するのかどうか、正直何とも言えない。

 いずれにせよ、千年王国の後に実現する「新しい天と新しい地」における神との永遠の交わりこそ、へブル書が啓示するところの「神の民に残された永遠の安息」の成就、つまり「神の贖いのわざの完成」なのだから、やはり23節は千年王国に関する預言と解釈するべきだろう。

へブル4:1-10

1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。

6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、

7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。

8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。 

 

(10)へ続く

安息日に関する考察(8)イザヤ58章

イザヤ58:13-14

13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、

14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。 

  この聖句も安息日尊守を推奨する立場の人々が引用する箇所である。安息日を尊ぶことによって、主の祝福が約束されているからである。

 当然、どの聖句においても言えるように、まず文脈を考慮し、「いつ」「誰が」「誰に」対して語っているかを知る必要がある。この場合、1節において「わが民」「ヤコブの家」、そして14節において「あなたの先祖ヤコブ」とあるので、主なる神はイスラエルの民に語っていたことがわかる。

1 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。

 しかしさらに重要な点は、そのイスラエルの民は律法の中で命じられていた「贖罪の日」の際の断食(「身を悩ます」)を行っていたのだが、「食を断つ」ことに囚われて、主が命じていた断食の本質を見失っていたことである。

レビ記23:26-32

26 主はまたモーセに言われた、

27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。

28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。

29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。

30 またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。

31 あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。

32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。

イザヤ58:3-5

3 彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。

4 見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。

5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。

 つまりイスラエルの民は、「贖罪の日」に関する戒めを表面的に守り、自分たちが「食を断ち、身を苦しめていること」が神の目にメリットとなると勘違いし、自分たちが想像していた「神の祝福」が得られないから神に不満を言い、その苛立ちを自分たちよりも「正しくない」、つまり「律法を尊守していない」と勝手に判断した隣人らに対して当たり散らしていたのである。

 このような状況は、自分たちが断食していることをひけらかし、何度も「イエスは安息日を破っている」と難癖つけていたパリサイびとや律法学者の態度と共通するものである。

マタイ6:16

また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

ルカ18:10-12

10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

ルカ6:6-7

6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。

7 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。

ヨハネ5:8-10;16-18

8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。

16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

ヨハネ9:16

そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。

 しかしそのようなパリサイびとらに主イエスが「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。」(マタイ12:7)と答えたように、主なる神が望んでいた真の断食の意味が「安息日に食を断つ」という字面を遥かに超えた領域において啓示されているのである。

イザヤ58:6-12

6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。

7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。

9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、

10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。

11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。

12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。

  冒頭に引用した安息日に関する約束は、このような霊的な文脈の中で解釈すべきであり、字面的尊守による祝福を超えたものである。そしてそれは律法の下では実現できず、御子においてのみ完全に成就したものである。

安息日に関する考察(7)律法全体の中の安息日、そして御子の中の安息

 安息日に関する考察(6)聖会 - an east windowにおいてレビ記23章を考察したが、その章に書いてある内容を繰り返し読んでいると、「安息日」の教えがイスラエルの民のために律法の定めていた様々の祭儀における聖会と一体のものであり、決して切り離せない全体の一部であることが理解できる。つまり律法が定めていたカレンダーを構成する重要な要素であり、安息日の教えの一要素だけを律法の全体から切り離し、独立したものとして考えることはできないのである。

 例えば、イタリアにある日本大使館は日本の行政機関であるが、だからといって日本の公休日には従ってはおらず、イタリアの法律によって定められた公休日に準じている。大使館職員の方は誰も、「日本では今日は『憲法記念日』だから仕事はしません」と主張することはできないのである。

 同じように日本に住んで働いているイタリア人は、日本の公休日以外に、イタリアの12日ある公休日を要求することはできない(イタリア人ならあり得るかもしれないが、一般的には通用しないだろう)。

 一つの規則は全体の枠組みの中で考慮しなければいけないのである。律法に関してもそれは同様、いやそれ以上であろう。初代エルサレム教会の長老の一人であったヤコブは、律法の一つの戒めが律法全体を同じであることを書き記している。

ヤコブ2:10

律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

 その真理は、御子自身の言葉でも理解できる。

マタイ5:17-18

17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。  

 つまり律法は、その一点一画も欠けることなく全部が御子によって成就されると預言されていて、実際に御子が十字架の上で「完了した」(ヨハネ19:30)と叫ばれた時、まさに律法の全てが一点一画も欠けることなく成就したのである。

 使徒パウロも、御子の十字架の死における律法全体の成就の意味を、以下のように啓示している。

コロサイ2:14

神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。  

 「証書」もしくは「証文」と和訳されている原語【χειρόγραφον cheirographon】は単数形であり、「規定」【δογμασιν dogmasin】は複数形である。つまり、主なる神が十字架につけた(勿論、この表現は霊的象徴である)のは、多くの規定によって構成された「律法全体」を示している。

 さらに使徒パウロは、男女の婚姻関係に譬えて、「律法と人間の関係」について啓示している。

ローマ7:1-4

1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・

2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。 

  妻は夫という一人の男性のすべてと婚姻関係にあるのであって、その男性の都合のいい要素(たとえば財産とか地位とか)とだけ結婚しているわけではない(現実にはそのような打算的関係も存在はするが、それはまた別の問題である)。同じように律法と人間のつながりは全てにおいてであったが、キリストの死によって、その全ての律法に死んだのである。だからこそ、死からよみがえったイエス・キリストと、完全に一つになり、神が喜ぶ実を結ぶことができるようになるのである。

 主なる神自身が御子を通して「証書」つまり律法全体を十字架につけ、葬ったわけだから、安息日の教えも含め、律法の中のあらゆる戒めは、十字架の死と復活したキリストによってのみ、はじめて真の意味が啓示されるのである。

マタイ11:28-30

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

「わたしのところに来なさい。」

「わたしが休ませてあげます。」

「わたしは心優しく、へりくだっている。」

「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」

そうすればたましいに安らぎが来ます。」

 

(8)へ続く