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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

安息日に関する考察(10)人の子は安息日の主である。

マタイ12:1-8

1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。

4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

8 人の子は安息日の主である」。 

  主イエスの弟子たちが空腹を感じ、偶々通った麦畑の穂を摘んで食べたのを見て、パリサイびとたちは主イエスに抗議した。おそらく、主イエスや弟子たちが律法を尊守しているかどうかを確認するために一同に付きまとい、誰かが律法の戒律に違反するのを見つけ批判する機会を今か今かと窺っていたのだろう。想像するだけでうんざりする状況である。

 しかし興味深い点は、そのパリサイ人らの批判に対する御子の反論において、マタイは他の共観福音書(マルコとルカ)にはない要素を記述していることである。

 実際に読み比べて、確認してみよう。

マルコ2:23-28

23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。

24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。

25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。

26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

ルカ6:1-5

1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。

2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。

3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。

4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。 

  まずどの共観福音書も、当時イスラエルの王であったダビデが、祭司の町ノブへ行った時、祭司アヒメレクから本来聖別された祭司たちしか食べることが許されていなかった聖なるパンを受け取って食べたエピソードを引用している。

Ⅰサムエル2:1-6

1 ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。

2 ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。

3 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。

4 祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。

5 ダビデは祭司に答えた、「わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか」。

6 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下さげたものである。 

 そしてどの共観福音書にもダビデが「神の家にはいって」と書いてあるが、当時はまだエルサレムの神殿が建造されていなかったし、神の契約の箱はキリアテ・ヤリムのアブナダブの家に20年近く置かれ、エルサレムに移されたのはこのエピソードよりも後のこと(Ⅰサムエル7:1-2とⅡサムエル6:1-3;Ⅰ歴代13:5-7参照)だから、祭司の町ノブにはおそらく神の幕屋だけが配置されていたのではないかと思う。

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 いずれにせよ、ダビデは祭司たち以外は王でさえも本来入ることが許されていなかった神の幕屋の中に入り、しかも聖別された祭司たちが聖所の中でしか食べることができなかった「いと聖なるパン」を食べ、供の者たちにも与えたのである。

レビ記24:5-9

5 あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。

6 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。

7 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。

8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。

9 これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」 

 そのエピソードに加えて、御子イエスは祭司たちが安息日においても天幕や神殿の中で奉仕するように律法が命じていたことを根拠に挙げて、弟子たちに罪がないことを主張している。

5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

8 人の子は安息日の主である。

 特に「宮よりも大いなる者がここにいる」という御子の言葉は、このエピソード全体を理解する鍵である。つまり御子は、自分が律法によって造られた神殿よりもはるかに権威がある「人の子」、つまり約束されていた「ダビデの子」「神のメシア」「主」であり、弟子たちはその「宮よりも大いなる者」に仕えるために聖別された祭司たちであるという考えが前提にあるわけである。

 だからこそ、モーセの律法による祭司たちが安息日において奉仕しても罪には問われなかったように、主イエスに仕える弟子たちは安息日に奉仕しても罪に問われないと主張しているのである。

 同じようにダビデ王が神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えても罪に問われなかったように、「ダビデの子なるイスラエルの王メシア」「アロンよりも偉大な大祭司」であるイエス・キリストは、自分に仕えている弟子たちが安息日の戒律を破って麦の穂を摘んだとしても、罪には定めない、と宣言しているのである。なぜなら、御子は律法による宮よりも、安息日よりも権威をもっている主だからである。

 ここで御子が証している「宮よりも大いなる者」「安息日の主」という啓示に関しては、『へブルびとへの手紙』の1章から10章までを読むと、より明確になると思う。そこでは、御子が御使いよりも、預言者モーセよりも、大祭司アロンよりも偉大であり、その御子による新しい契約は律法による契約よりも優れ、その幕屋は地ではなく天に属し、そのいけにえは律法で定められていた動物のいけにえより遥かに優れていることが啓示されている。

 

(11)へ続く

 

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