an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

安息日に関する検証(13)各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

ローマ14:1-12

1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。

7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。

8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

10 それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。

11 すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。

12 だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 

 もし使徒パウロが元パリサイ派のユダヤ人として、新生した後も安息日を尊守することが神の御心であり、それを実践し、そして諸教会に教えていたとすれば、以下のような選択的な言葉をローマの教会に書き送ることは決してなかっただろう。

また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。

 ローマの教会を構成していたユダヤ人信仰者もローマ人信仰者、もしくは市民権をもっていなかった奴隷の信仰者も、各自の確信に基づいて、「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える」自由が保証されていたのである。

 そしてこの自由は、当時のローマの教会のみならず、現代においても世界各地の信仰者に対して与えられている自由である。だから「安息日の教え」に関して、現代の信仰者は同じように各自の確信に基づいて主のために選択し、実践すべきだろう。

  • 各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
  • だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
  • わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。
  • すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう
  • わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 

 これらの言葉は、私たち信仰者の一人一人に、選択の自由と共に個人的な責任が与えられていることが示されている。つまり誰かに教えられたから半信半疑で従うというのではなく、聖書の啓示に従って個人的に確信を求め、その確信を基に主の御前で仕えていくという責任である。

 

追記(2017年5月23日)

 土曜日を安息日として尊守するべきという見解の人々に中で、「パウロは、ここで論じているのは、食べ物のことについてである。さらに、17、21節にも飲食について論じている。1節から始まった文脈の連続で、その中に日のことまで言及しているのは第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。」と主張する人々がいる。文脈上、律法に関する食事の規定を語っているのだから、律法に基づく安息日に関して語っているのであって、「第七日目の安息日」についてではない、という意見である。

 まずその人々が勧めているように、文脈を読むと、13:8-10の「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」の「愛は律法を全うする」という大きな主題があることがわかる。  

 その主題の文脈において、14章は「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。」と始まり、15章も「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」と続いているわけである。  

 その文脈の中で、具体的に注意すべき要素として「食べ物に関する規定」や「日に対する尊守」であるわけだから、食事に関する規定について使徒パウロがより多くの言葉を費やしていても、それが他の要素を否定したり、取り消したりすることにはならない。  

 実際、14節には「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。」とあり、飲食に関することだけでなく、「そのほか」についても兄弟を躓かせないように注意を促している。この「その他」のことに「日に関する規定」や律法の他の規定が包括されているので、「14章は食事のことについて語っているのであって、安息日についてではない」という主張は根拠に欠けると言える。

 また「日に関する規定」が、律法の祭儀に関わる安息日に関して語っているのであって、「第七日の安息日」に関するものではない、という主張に関してであるが、そもそも主なる神は万物創造の七日目に、アダムとエバに「第七日の安息日」を守れという命令をしておらず、アダムからモーセの時代まで「第七日目の安息日」を守ったという記述もない。モーセの律法によって「第七日目の休息」を根拠に初めて安息日がイスラエルの民に対して定められてのだから、ローマ14:5に関して「第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。」という主張は、自分勝手な都合によって「安息日」を再定義している詭弁である。

 

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