要点は、かしらなるキリスト
へブル8:1-2
1 以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、
2 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。
和訳ではほぼすべてのバージョンにおいて「要点」と訳されている原語「Κεφάλαιον Kephalaion」は、「Kephale かしら、頭」という言葉から派生した名詞で、イタリア語の形容詞「Capitale 枢要な、主要な、最も重要な、肝心な、決定的な」が「Capo かしら、頭」(ラテン語 Caput)から派生した関係と類似している。その意味でイタリア語聖書の三つのバージョンは、符合が明確である。
Diodati
ORA, fra le cose suddette, il principal capo è:
RV
Ora, il punto capitale delle cose che stiamo dicendo, è questo:
CEI
Il punto capitale delle cose che stiamo dicendo è questo:
「頭」が体全体を司る上で必要不可欠で、最も重要であるように、『へブルびとへの手紙』に書かれている真理の最も重要な点として、筆者は以下の点を述べている。
- イエス・キリストが私たちの大祭司として、天にあって大能者の御座の右に座しておられる。
- 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる。
つまりここでは、生けるキリストに関して非常にダイナミックな啓示をなされているのである。
- キリストのアイデンティティー:「大祭司、奉仕者」
- キリストの地位:「天にあって大能者(父なる神)の御座の右に座している主権者としての地位」
- キリストの働き:天にある真の聖所で仕えておられる。(奉仕者として真の幕屋なる聖所で仕えている)
ここで啓示されているキリストは、中世の絵画などで表現された静止したシンボルではなく、命の満ちて神の計画の成就のために仕えているアクティブなキリストである。
この手紙が書かれた時代にはまだ、エルサレムに神殿があり、その中でレビ族に属する人々が仕えていた。しかしその神殿は、ローマ軍による西暦七十年の破壊が示しているように、人間の手で作られた、一過性のものであった。そしてその中で仕えていた大祭司も、弱さを身に負う人間に過ぎず、死によって制限されていた。
その地上的な大祭司とは全く異なる次元において、キリストは永遠の大祭司として、空間や時間に制限されることない天上の聖所において、いつまでも仕えているのである。
へブル1:3
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
この最も重要な点、「要点」をしっかり掴み、それを中心に聖書を読んでいけば、食事や飲み物の規定、安息日や祭儀などの地上的要素に囚われたり、弱さを負った人間(たといそれがとても宗教的で霊的に映るとしても)やイスラエル人特権意識に振り回されたりしない、生けるキリストだけを求めるシンプルで健全で力強い信仰が与えられるのである。
へブル13:8-9
8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
9 さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。
コロサイ3:1-11
1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
エペソ4:14-16
14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
16 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
コロサイ2:9-11
9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
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