安息日に関する考察(11)会堂司の教訓
ルカ13:10-17
10 安息日に、ある会堂で教えておられると、
11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。
御子イエスが安息日に会堂にいた一人の女性の病気を癒したのを見た会堂司が、憤って群衆に言い放った言葉は、御子イエスに対する人間の無知と傲慢を強烈に表している。
「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
確かにこの会堂司は一つの社会的・宗教的共同体の責任者としての民に対して権威を授けられていた者だった。しかし「神殿よりも会堂よりも大いなる者」「安息日の主」である御子の前には、「安息日に何をすべきか、またはしてはならないか」とか「主がいつ癒しの奇蹟を行うべきか」を取り仕切る権威など与えられていなかったはずである。
会堂司自身が病気を癒す神の力によって、癒しを行っていたのだろうか。彼は「安息日の主」であったのだろうか。御子が「偽善者たち」と呼んだのは当然だろう。
そしてそのような偽善者であっても、安息日には自分たちの家畜を解放し、水を飲ませたりするのに、なぜ創造主であり、安息日の主である御子が自らの権威によって病気を癒したことを裁くのか、と指摘しているのである。
「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」
そのサタンの束縛を解く力もその思いさえも持ち合わせていなかった人々に対する強烈な皮肉である。実際、「イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った」。
ヨハネ5:15-17
15 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。
16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。
17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。
マタイ28:18-20
18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
あらゆる権威を持ち、世の終わりまでいつも私たちの共におり、今もその無限の力で働いておられる主イエスの憐みの心と働きに対して、私たちは会堂司のように自分たちの信念や偏見、宗教的権威によって「いつ、どこで、どのように」を取り仕切ろうとしていないだろうか。今一度省みて、自由の霊によって主なる神の力強い御業に委ねてみよう。そしてこのエピソードの群衆のように「こぞって、イエスがなされるすべてのすばらしいみわざを見て喜び」、主の御名を賛美し続けよう。
(12)へ続く
安息日に関する考察(10)人の子は安息日の主である。
マタイ12:1-8
1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
8 人の子は安息日の主である」。
主イエスの弟子たちが空腹を感じ、偶々通った麦畑の穂を摘んで食べたのを見て、パリサイびとたちは主イエスに抗議した。おそらく、主イエスや弟子たちが律法を尊守しているかどうかを確認するために一同に付きまとい、誰かが律法の戒律に違反するのを見つけ批判する機会を今か今かと窺っていたのだろう。想像するだけでうんざりする状況である。
しかし興味深い点は、そのパリサイ人らの批判に対する御子の反論において、マタイは他の共観福音書(マルコとルカ)にはない要素を記述していることである。
実際に読み比べて、確認してみよう。
マルコ2:23-28
23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。
24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。
25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。
26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
ルカ6:1-5
1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。
2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。
3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。
まずどの共観福音書も、当時イスラエルの王であったダビデが、祭司の町ノブへ行った時、祭司アヒメレクから本来聖別された祭司たちしか食べることが許されていなかった聖なるパンを受け取って食べたエピソードを引用している。
Ⅰサムエル2:1-6
1 ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。
2 ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。
3 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。
4 祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。
5 ダビデは祭司に答えた、「わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか」。
6 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下さげたものである。
そしてどの共観福音書にもダビデが「神の家にはいって」と書いてあるが、当時はまだエルサレムの神殿が建造されていなかったし、神の契約の箱はキリアテ・ヤリムのアブナダブの家に20年近く置かれ、エルサレムに移されたのはこのエピソードよりも後のこと(Ⅰサムエル7:1-2とⅡサムエル6:1-3;Ⅰ歴代13:5-7参照)だから、祭司の町ノブにはおそらく神の幕屋だけが配置されていたのではないかと思う。
いずれにせよ、ダビデは祭司たち以外は王でさえも本来入ることが許されていなかった神の幕屋の中に入り、しかも聖別された祭司たちが聖所の中でしか食べることができなかった「いと聖なるパン」を食べ、供の者たちにも与えたのである。
レビ記24:5-9
5 あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。
6 そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。
7 あなたはまた、おのおのの重ねの上に、純粋の乳香を置いて、そのパンの記念の分とし、主にささげて火祭としなければならない。
8 安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。
9 これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」
そのエピソードに加えて、御子イエスは祭司たちが安息日においても天幕や神殿の中で奉仕するように律法が命じていたことを根拠に挙げて、弟子たちに罪がないことを主張している。
5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
8 人の子は安息日の主である。
特に「宮よりも大いなる者がここにいる」という御子の言葉は、このエピソード全体を理解する鍵である。つまり御子は、自分が律法によって造られた神殿よりもはるかに権威がある「人の子」、つまり約束されていた「ダビデの子」「神のメシア」「主」であり、弟子たちはその「宮よりも大いなる者」に仕えるために聖別された祭司たちであるという考えが前提にあるわけである。
だからこそ、モーセの律法による祭司たちが安息日において奉仕しても罪には問われなかったように、主イエスに仕える弟子たちは安息日に奉仕しても罪に問われないと主張しているのである。
同じようにダビデ王が神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えても罪に問われなかったように、「ダビデの子なるイスラエルの王メシア」「アロンよりも偉大な大祭司」であるイエス・キリストは、自分に仕えている弟子たちが安息日の戒律を破って麦の穂を摘んだとしても、罪には定めない、と宣言しているのである。なぜなら、御子は律法による宮よりも、安息日よりも権威をもっている主だからである。
ここで御子が証している「宮よりも大いなる者」「安息日の主」という啓示に関しては、『へブルびとへの手紙』の1章から10章までを読むと、より明確になると思う。そこでは、御子が御使いよりも、預言者モーセよりも、大祭司アロンよりも偉大であり、その御子による新しい契約は律法による契約よりも優れ、その幕屋は地ではなく天に属し、そのいけにえは律法で定められていた動物のいけにえより遥かに優れていることが啓示されている。
(11)へ続く
安息日に関する考察(9)イザヤ66章の預言
イザヤ66:15-24
15 見よ、主は火の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。
16 主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。
17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。
19 わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。
20 彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。
21 「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。
22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
安息日の尊守を主張する立場で、上の22節と23節を引用して、「新しい天と新しい地においても安息日が守られている」とする意見がある。しかしここでは、あくまで「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」つまり「新しい天と新しい地が永遠のように、イスラエルの名も永遠に残る」と言っているのであって、「新しい天と新しい地において、安息日ごとにすべての人はわが前に来て礼拝する」とは書かれていないからである。
それは「新しい天と新しい地」という時期の性質を考えてみると理解できる。つまりその時代は永遠の状態に入っており、現在のように時間や空間に制限されていないからである。実際、新しい天と新しい地は太陽や月を必要とせず、そこでの礼拝は天体の動きに条件付けられるものではないことが啓示されている。
黙示録21:1-4;22-27
1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
黙示録22:3-5
3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
イザヤ66章の15節と16節は、主の地上再臨によって諸国が裁かれる出来事を思い起こす。そして24節は、新しい天と新しい地の創造がはじまる前におきる、「第二の死」と呼ばれる神の最終的な裁きの啓示を思い出させる。
黙示録20:11-15
11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
黙示録21:8
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
これらの点を考慮すると、「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」という預言は、キリストの地上再臨によってはじまる千年王国の期間について語っている、と解釈するのが適していると思われる。
ただ「千年王国」の成就の預言に関して、第一の復活によって栄光ある体を受けた聖徒らによる統治と、復興されると思われる神殿祭儀との関係は、理解し難い点が非常に多く、生物や生存環境に抜本的変化があるところにおける「安息日」が、現在私たちが考えるところの「安息日」と一致するのかどうか、正直何とも言えない。
いずれにせよ、千年王国の後に実現する「新しい天と新しい地」における神との永遠の交わりこそ、へブル書が啓示するところの「神の民に残された永遠の安息」の成就、つまり「神の贖いのわざの完成」なのだから、やはり23節は千年王国に関する預言と解釈するべきだろう。
へブル4:1-10
1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、
7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
(10)へ続く
安息日に関する考察(8)イザヤ58章
イザヤ58:13-14
13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。
この聖句も安息日尊守を推奨する立場の人々が引用する箇所である。安息日を尊ぶことによって、主の祝福が約束されているからである。
当然、どの聖句においても言えるように、まず文脈を考慮し、「いつ」「誰が」「誰に」対して語っているかを知る必要がある。この場合、1節において「わが民」「ヤコブの家」、そして14節において「あなたの先祖ヤコブ」とあるので、主なる神はイスラエルの民に語っていたことがわかる。
1 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。
しかしさらに重要な点は、そのイスラエルの民は律法の中で命じられていた「贖罪の日」の際の断食(「身を悩ます」)を行っていたのだが、「食を断つ」ことに囚われて、主が命じていた断食の本質を見失っていたことである。
レビ記23:26-32
26 主はまたモーセに言われた、
27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。
28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。
29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。
30 またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。
31 あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。
32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。
イザヤ58:3-5
3 彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。
4 見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。
5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。
つまりイスラエルの民は、「贖罪の日」に関する戒めを表面的に守り、自分たちが「食を断ち、身を苦しめていること」が神の目にメリットとなると勘違いし、自分たちが想像していた「神の祝福」が得られないから神に不満を言い、その苛立ちを自分たちよりも「正しくない」、つまり「律法を尊守していない」と勝手に判断した隣人らに対して当たり散らしていたのである。
このような状況は、自分たちが断食していることをひけらかし、何度も「イエスは安息日を破っている」と難癖つけていたパリサイびとや律法学者の態度と共通するものである。
マタイ6:16
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
ルカ18:10-12
10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ルカ6:6-7
6 また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。
7 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。
ヨハネ5:8-10;16-18
8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。
10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。
16 そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。
17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。
18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。
ヨハネ9:16
そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
しかしそのようなパリサイびとらに主イエスが「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。」(マタイ12:7)と答えたように、主なる神が望んでいた真の断食の意味が「安息日に食を断つ」という字面を遥かに超えた領域において啓示されているのである。
イザヤ58:6-12
6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。
冒頭に引用した安息日に関する約束は、このような霊的な文脈の中で解釈すべきであり、字面的尊守による祝福を超えたものである。そしてそれは律法の下では実現できず、御子においてのみ完全に成就したものである。
安息日に関する考察(7)律法全体の中の安息日、そして御子の中の安息
安息日に関する考察(6)聖会 - an east windowにおいてレビ記23章を考察したが、その章に書いてある内容を繰り返し読んでいると、「安息日」の教えがイスラエルの民のために律法の定めていた様々の祭儀における聖会と一体のものであり、決して切り離せない全体の一部であることが理解できる。つまり律法が定めていたカレンダーを構成する重要な要素であり、安息日の教えの一要素だけを律法の全体から切り離し、独立したものとして考えることはできないのである。
例えば、イタリアにある日本大使館は日本の行政機関であるが、だからといって日本の公休日には従ってはおらず、イタリアの法律によって定められた公休日に準じている。大使館職員の方は誰も、「日本では今日は『憲法記念日』だから仕事はしません」と主張することはできないのである。
同じように日本に住んで働いているイタリア人は、日本の公休日以外に、イタリアの12日ある公休日を要求することはできない(イタリア人ならあり得るかもしれないが、一般的には通用しないだろう)。
一つの規則は全体の枠組みの中で考慮しなければいけないのである。律法に関してもそれは同様、いやそれ以上であろう。初代エルサレム教会の長老の一人であったヤコブは、律法の一つの戒めが律法全体を同じであることを書き記している。
ヤコブ2:10
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
その真理は、御子自身の言葉でも理解できる。
マタイ5:17-18
17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
つまり律法は、その一点一画も欠けることなく全部が御子によって成就されると預言されていて、実際に御子が十字架の上で「完了した」(ヨハネ19:30)と叫ばれた時、まさに律法の全てが一点一画も欠けることなく成就したのである。
使徒パウロも、御子の十字架の死における律法全体の成就の意味を、以下のように啓示している。
コロサイ2:14
神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
「証書」もしくは「証文」と和訳されている原語【χειρόγραφον cheirographon】は単数形であり、「規定」【δογμασιν dogmasin】は複数形である。つまり、主なる神が十字架につけた(勿論、この表現は霊的象徴である)のは、多くの規定によって構成された「律法全体」を示している。
さらに使徒パウロは、男女の婚姻関係に譬えて、「律法と人間の関係」について啓示している。
ローマ7:1-4
1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
妻は夫という一人の男性のすべてと婚姻関係にあるのであって、その男性の都合のいい要素(たとえば財産とか地位とか)とだけ結婚しているわけではない(現実にはそのような打算的関係も存在はするが、それはまた別の問題である)。同じように律法と人間のつながりは全てにおいてであったが、キリストの死によって、その全ての律法に死んだのである。だからこそ、死からよみがえったイエス・キリストと、完全に一つになり、神が喜ぶ実を結ぶことができるようになるのである。
主なる神自身が御子を通して「証書」つまり律法全体を十字架につけ、葬ったわけだから、安息日の教えも含め、律法の中のあらゆる戒めは、十字架の死と復活したキリストによってのみ、はじめて真の意味が啓示されるのである。
マタイ11:28-30
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
「わたしのところに来なさい。」
「わたしが休ませてあげます。」
「わたしは心優しく、へりくだっている。」
「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」
「そうすればたましいに安らぎが来ます。」
(8)へ続く
安息日に関する考察(6)聖会
レビ記23章には、週の第七日の安息日と、過ぎ越しの祭やペンテコステの祭、贖罪の日の祭など、イスラエルの年間を通して行うように命じられていた「主の定めの祭」について詳細が記述されている。
1 主はまたモーセに言われた、
2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。
3 六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。
「第七日の安息日」も「主の定めの祭」も、聖会【מִקְרָא קֹדֶש miqrâ' qôdesh】と呼ばれている。【מִקְרָא miqrâ'】はCalling out 召集という意味を持ち、新約聖書のギリシャ語【ἐκκλησία ekklēsia 教会】に対応する言葉といえる。
興味深い点は、その聖会が安息日であるゆえに如何なる仕事もしてはいけないと命じていると同時に、幕屋や神殿で仕えていたレビ人たちにとっては、非常に忙しい奉仕の日であったことである。
過ぎ越し祭
4 その時々に、あなたがたが、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。
5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。
7 その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。
8 あなたがたは七日の間、主に火祭をささげなければならない。第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない』」。
初穂祭
9 主はまたモーセに言われた、10 「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない。
11 彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。
12 またその束を揺り動かす日に、一歳の雄の小羊の全きものを燔祭として主にささげなければならない。
13 その素祭には油を混ぜた麦粉十分の二エパを用い、これを主にささげて火祭とし、香ばしいかおりとしなければならない。またその灌祭には、ぶどう酒一ヒンの四分の一を用いなければならない。
14 あなたがたの神にこの供え物をささげるその日まで、あなたがたはパンも、焼麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。
七週祭(ペンテコステ)
15 また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。
16 すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。
17 またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に種を入れて焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。
18 あなたがたはまたパンのほかに、一歳の全き小羊七頭と、若き雄牛一頭と、雄羊二頭をささげなければならない。すなわち、これらをその素祭および灌祭とともに主にささげて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主に香ばしいかおりとなるであろう。
19 また雄やぎ一頭を罪祭としてささげ、一歳の小羊二頭を酬恩祭の犠牲としてささげなければならない。
20 そして祭司はその初穂のパンと共に、この二頭の小羊を主の前に揺祭として揺り動かさなければならない。これらは主にささげる聖なる物であって、祭司に帰するであろう。
21 あなたがたは、その日にふれ示して、聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。
22 あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。
ラッパの日(のちの新年祭)
23 主はまたモーセに言われた、
24 「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。
25 どのような労働もしてはならない。しかし、主に火祭をささげなければならない』」。
贖罪の日
26 主はまたモーセに言われた、
27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。
28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。
29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。
30 またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。
31 あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。
32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。
仮庵祭
33 主はまたモーセに言われた、
34 「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。
35 初めの日に聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。
36 また七日の間、主に火祭をささげなければならない。八日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。これは聖会の日であるから、どのような労働もしてはならない。
37 これらは主の定めの祭であって、あなたがたがふれ示して聖会とし、主に火祭すなわち、燔祭、素祭、犠牲および灌祭を、そのささぐべき日にささげなければならない。
38 このほかに主の安息日があり、またほかに、あなたがたのささげ物があり、またほかに、あなたがたのもろもろの誓願の供え物があり、またそのほかに、あなたがたのもろもろの自発の供え物がある。これらは皆あなたがたが主にささげるものである。
39 あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。
40 初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。
41 あなたがたは年に七日の間、主にこの祭を守らなければならない。これはあなたがたの代々ながく守るべき定めであって、七月にこれを守らなければならない。
42 あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。
43 これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。
44 モーセは主の定めの祭をイスラエルの人々に告げた。
例えば、安息日全般の通常の捧げものとして、以下のものを捧げなければいけなかった。
民数記28:9-10
9 また安息日には一歳の雄の全き小羊二頭と、麦粉一エパの十分の二に油を混ぜた素祭と、その灌祭とをささげなければならない。
10 これは安息日ごとの燔祭であって、常燔祭とその灌祭とに加えらるべきものである。
つまり以下の聖句において命じられている、毎日、朝夕に捧げなければいけなかった常燔祭とその灌祭以外にも、安息日ごとの燔祭を捧げなければいけなかったのである。
民数記28:3-8
3 また彼らに言いなさい、『あなたがたが主にささぐべき火祭はこれである。すなわち一歳の雄の全き小羊二頭を毎日ささげて常燔祭としなければならない。
4 すなわち一頭の小羊を朝にささげ、一頭の小羊を夕にささげなければならない。
5 また麦粉一エパの十分の一に、砕いて取った油一ヒンの四分の一を混ぜて素祭としなければならない。
6 これはシナイ山で定められた常燔祭であって、主に香ばしいかおりとしてささげる火祭である。
7 またその灌祭は小羊一頭について一ヒンの四分の一をささげなければならない。すなわち聖所において主のために濃い酒をそそいで灌祭としなければならない。
8 夕には他の一頭の小羊をささげなければならない。その素祭と灌祭とは朝のものと同じようにし、その小羊を火祭としてささげ、主に香ばしいかおりとしなければならない。
またさらにその安息日が定められた祭と重なった場合、例えば「贖罪の日」に、どれだけの動物を犠牲に捧げなければいけなかったかが、以下の聖句で確認できる。
民数記29:7-11
7 またその七月の十日に聖会を開き、かつあなたがたの身を悩まさなければならない。なんの仕事もしてはならない。
8 あなたがたは主に燔祭をささげて、香ばしいかおりとしなければならない。すなわち若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の小羊七頭をささげなければならない。これらはみな全きものでなければならない。
9 その素祭には油を混ぜた麦粉をささげなければならない。すなわち雄牛一頭につき一エパの十分の三、雄羊一頭につき十分の二をささげ、
10 また七頭の小羊には一頭ごとに十分の一をささげなければならない。
11 また雄やぎ一頭を罪祭としてささげなければならない。これらは贖罪の罪祭と常燔祭とその素祭、および灌祭のほかのものである
燔祭として「若い雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭」を捧げ、罪祭として雄やぎを一頭を捧げなければならなかった。(ちなみにエパは容量の単位で「かご」を意味し、約23リットル分であった。)
これはつまり、イスラエルの民にとっては普段の仕事を休む安息の日であったと同時に、神殿で仕える祭司たちにとっては「神が求める捧げものを律法に従って捧げなければいけなかった日」でもあったのである。
これは私たちに何を意味するだろうか。主なる神の恵みによってこの世から召集され、キリストの体である教会に属するようになった信仰者は、神の民であると同時に、大祭司イエス・キリストと共に仕える祭司なのである。
Ⅰペテロ2:9(新改訳)
9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
これは恵みの下に生きるキリスト者が「安息日」に関して霊的適用する時、ただ単に「通常の仕事から離れて休む」という面だけではなく、主に仕える祭司として「主なる神が求める霊のいけにえを捧げる」そして「それをどのように捧げるか」という面も考慮し、実践しなければいけないことを示している。
ヨハネ4:23-24
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
ローマ7:6
しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
ローマ12:1-2
1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
へブル13:15-16
15 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。
16 そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。
Ⅰペテロ2:5
この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
詩篇記者が安息日の歌として書き残している詩篇92篇の賛美は、その対象があくまで「主なる神」であり、人間が安息日を守っているという点ではないことは、注目に値する。
詩篇92
1 安息日の歌、さんび いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、
3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。
4 主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。
5 主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、
6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。
7 たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。
8 しかし、主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます。
9 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。
10 しかし、あなたはわたしの角を野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。
11 わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの破滅を聞きました。
12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
14 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
15 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
ネヘミヤが安息日に祈った祈りと比較すると興味深いと思う。
ネヘミヤ13:22
わたしはまたレビびとに命じて、その身を清めさせ、来て門を守らせて、安息日を聖別した。わが神よ、わたしのためにまた、このことを覚え、あなたの大いなるいつくしみをもって、わたしをあわれんでください。
(7)へ続く
安息日に関する考察(5)代々にわたるしるし
出エジプト31:12ー17
12 主はまたモーセに言われた、
13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。
16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。
「これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしである」
「これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである」
主なる神はシナイ山でイスラエルの民に律法を与えた時、「ご自身とイスラエルの民との間の代々にわたるしるし」として、安息日を与え、それを厳守するように命じた。このしるしは、ある人々が主張するようにエデンの園で人間に与えられたのではなく、シナイ山でエジプトから導き出されたイスラエルの民に初めて与えられたものである。
主なる神は大洪水の後、信仰によって生き残ったノアの家族とその子孫及び地上に生きる全ての生き物に対して、一つの「契約のしるし」として「雲の中の虹」を与えた。
創世記9:8-17
8 神はノアおよび共にいる子らに言われた、
9 「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。
10 またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。
11 わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。
12 さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。
13 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
14 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。
15 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。
16 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。
17 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。
また主なる神はアブラハムに、「神とアブラハムの子孫との間の契約のしるし」として割礼を与えた。
創世記17:9-14
9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち
10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。
11 あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。
12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。
13 あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。
14 割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。
主なる神はご自身の契約のしるしとしての安息日を、ノアの時にもアブラハムの時にも与えず、エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民に初めて与えたのである。
「これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである」
「永遠に」と書いてある。私はこの言葉に、ご自身が選ばれたイスラエルの民への計画を見出す。なぜなら神は西暦70年のエルサレム陥落と神殿破壊、そしてその後の離散、そし終わりの時のイスラエルの民の救いを予め計画していたからである。
つまり神殿における贖罪を中心とした礼拝が不可能になり、各地に離散したイスラエルの民が契約の民としてのアイデンティティーの「最後の砦」として、安息日を与えていたと思うのである。
実際、イスラエルの民の間では、「イスラエル人が安息日を守ってきたのではなく、安息日がイスラエル人を守ってきたのだ」という格言がある。つまり、異邦人の土地と文化の中に二千年近く生活し、律法による祭儀礼拝の不可欠な神殿さえ持たず(ここに現在のユダヤ教徒が、旧約聖書ではなくタルムードをより重要視している一つの理由がある)、多くの迫害や追放、略奪、虐殺などの扱いを受けながらも、自らのアイデンティティーを失うことがなかったのは、イスラエルの民に安息日が与えられていたからだ、という考え方である。
勿論、主なる神は一つの宗教的戒律をただ守らせるためにではなく、最終的に彼らが御子イエスのことを真のメシアであると信じて救われることを望み、計画しているからだと信じる。
このような救いの計画をもっていたからこそ、主イエスは今から二千年近くも前に、大患難期において反キリストが引き起こす選民に対する迫害の預言の中で、安息日に関する言及をしているのであろう。
マタイ24:15-22
15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
ダニエル12:1
その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。
ローマ11:25-36
25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。
27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。
28 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。
30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。
32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
33 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
34 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。
35 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
36 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
(6)へ続く
参考になるサイト: