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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

安息日に関する考察(4)違反に対する処罰

出エジプト31:12-18

12 主はまたモーセに言われた、

13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。

16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。

出エジプト35:1-3

1 モーセはイスラエルの人々の全会衆を集めて言った、「これは主が行えと命じられた言葉である。

2 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。

3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。

 確かに安息日の命令の中には、その命令に背いた場合の処罰に関する命令も含まれている。

 「すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。」

「すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。」

「この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。」

 何と峻厳な戒めだろうか。「全て」「必ず」「誰でも」という表現が、さらに妥協のない厳しさを強調している。

 さらに、年に一回の「贖罪の日」の安息日に関しては、いかなる仕事をしてはいけなかっただけでなく、「身を悩ます【עָנָה ‛ânâh】」(身に荒布をまとい、断食して過ごすことを意味していたと言われている。詩篇35:13参照)義務も課せられていた。

レビ記23:26-32

26 主はまたモーセに言われた、

27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。

28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。

29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。

30 またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。

31 あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。

32 これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。

 勿論、この「身を悩まさなければいけなかった贖罪の日の安息日」は、その後に続く「仮庵の祭」における喜び(この喜びは、収穫の喜び以上に、エジプトの奴隷生活から解放され、自由な民とされた喜びを覚えるためであった)をより際立たせるものでもあった。

レビ記23:33

33 主はまたモーセに言われた、

34 「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。

35 初めの日に聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。

36 また七日の間、主に火祭をささげなければならない。八日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。これは聖会の日であるから、どのような労働もしてはならない。

37 これらは主の定めの祭であって、あなたがたがふれ示して聖会とし、主に火祭すなわち、燔祭、素祭、犠牲および灌祭を、そのささぐべき日にささげなければならない。

38 このほかに主の安息日があり、またほかに、あなたがたのささげ物があり、またほかに、あなたがたのもろもろの誓願の供え物があり、またそのほかに、あなたがたのもろもろの自発の供え物がある。これらは皆あなたがたが主にささげるものである。

39 あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。

40 初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。

41 あなたがたは年に七日の間、主にこの祭を守らなければならない。これはあなたがたの代々ながく守るべき定めであって、七月にこれを守らなければならない。

42 あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。

43 これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。

44 モーセは主の定めの祭をイスラエルの人々に告げた。 

 いずれにせよ、贖罪の日の安息日に関しても、その戒めを守らなかった者に対する処罰(「民のうちから断たれるであろう。」「その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。」)が、明確に記されている。

 そしてその処罰は、単なる脅しではなかったことも、荒野を彷徨っていたイスラエルの民の歴史が示している。

民数記15:32-36

32 イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。

33 そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、

34 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。

35 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。

36 そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。 

  しかし主なる神は、安息日の命令に背いた民に対して、いつでもこのような直接的な裁きを下していたわけではなかった。(もし神が、安息日の戒めだけでなく、律法の全ての戒めに対してそのような厳格な対応をしていたら、イスラエルの民は完全に滅ぼされていただろう。なぜなら、誰一人として律法を完全に守れる人間などいないのだから。) それは、御子イエス・キリストによる贖罪の計画を備えていたからであった。

ローマ3:21-26

21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 

 御子は「主なる神がご自身を信じる者を聖別する主であること」を示し、神の義を示すために、安息日の戒律を背いた者の処罰さえも背負い、「民のうちから断たれ」、十字架の呪いの死を通られたのである。

 私は新約聖書の教えに従い、キリスト者がある一日、もしくはある時間を特別に選び、普段の仕事や雑務、娯楽などから一旦離れて、自分が受けるべきであった律法の裁きを背負ってくださった御子イエスの御名を通して、感謝の礼拝のためにその日をその他の日よりも聖別しようとする選択に関して、心から賛同する。その日が現代のカレンダーに従った土曜日であっても、他の曜日であっても同じである。

ローマ14:5-6

5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。 

 しかしその選択において、「自分は安息日の尊守している」という自負心から生れる自己義によって、自分が「安息日を守っていない」と判断する人々の裁きを語り始めるなら、完全に本末転倒だと考える。ユダヤ教の慣習に従って現代の土曜日を「安息日」として聖別するならば、その日は自分の義を立て、隣人を裁くために費やすのではなく、安息日の戒めを含め律法のあらゆる戒めを守ることができない自分の罪を認め、その罪のために十字架の死によって民から断たれた御子の死と復活に感謝し、その御子によって立てられた神の義を聖別するために費やすべきではないだろうか。

 御子の十字架だけを誇る心には、唯一の義なる神との交わりによる「魂の休息と祝福」が宿るのである。

 

(5)へ続く

安息日に関する考察(3)安息日の戒めの対象としるし

3.安息日の戒めの対象としるし

出エジプト20:2;8-11

2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

出エジプト31:12ー17

12 主はまたモーセに言われた、

13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。

16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

レビ記19:1-3

1 主はモーセに言われた、

2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

3 あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 

 上に引用した聖句を読むと、当然、安息日の戒めが「エジプトの奴隷の家から導き出された」「イスラエルの人々の全会衆」を対象にしており、また安息日を守ることが、「主なる神とイスラエルの民との間のしるし」であったことがわかる。

 この「主なる神とイスラエルの民との間のしるし」という概念は、以下の聖句にも書き記されている。

エゼキエル20:12;19-20

12 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。

19 主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、

20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。 

 もし私たち異邦人(イスラエル人以外の人間)が、御子イエスの贖罪のわざを根拠に、「エジプトの奴隷の家から導き出された」を「罪の奴隷状態から解放された」と霊的に適用し、「イスラエルの人々の全会衆」を「恵みによって救われた神の民、教会」と解釈するならば、「主なる神と教会との間のしるし」とは何であろうか。他の要素に関しては恵みを根拠に、霊的解釈を適用するのに、安息日を守ることに関しては同じ基準を用いず、そのまま字義的な適用すべきなのだろうか。

 またイエス・キリストの恵みの下にあって、「主なる神が自分を聖別したことを知らせるため」、また「主なる神が自分の神であることを知らせるため」に信仰者に与えられている「しるし」とは何だろうか。

 それは信仰者のうちに与えられた聖霊ではないだろうか。

エペソ1:13-14

13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。

14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。 

 安息日以外にもう一つのイスラエルの民に与えられていた「しるし」は割礼であり、その割礼を受けていなかったものは過ぎ越しの祭の食事をすることもできなかった。

創世記17:9-14

9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち

10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。

11 あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。

12 あなたがたのうちの男子はみな代々、家に生れた者も、また異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、生れて八日目に割礼を受けなければならない。

13 あなたの家に生れた者も、あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければならない。こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。

14 割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。 

出エジプト12:48

寄留の外国人があなたのもとにとどまっていて、主に過越の祭を守ろうとするときは、その男子はみな割礼を受けてのち、近づいてこれを守ることができる。そうすれば彼は国に生れた者のようになるであろう。しかし、無割礼の者はだれもこれを食べてはならない。

 しかしその肉体の割礼も、御子イエスの贖いのわざによって、「御子の十字架の死による自我の死」という霊的な要素へと昇華されたのに、安息日に関しては未だに地上の時間的制限に限定された規定に基づいていなければいけないのだろうか。

 それとも、安息日を尊守することで約束されていた「休息」や「生ける神との交わり」「祝福」は、十字架の上で贖いのわざを完成し、死から復活して、時間にも空間にも制限されない永遠の御座につかれた御子によって、信じる者全ての与えられたのではないだろうか。

エペソ1:3-5

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

エペソ2:4-6

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、

5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――

6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

コロサイ2:8-12

8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、

11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。

12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。

 

(4)へ続く

安息日に関する考察(2)「第七日目」

2.「第七日目」

創世記2:1-3

1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 この「第七日」は非常に明確な基準をもっていて、主なる神が天地創造をはじめた時点から数えて「第七日」という意味である。つまり、日数を数える基準が「天地創造のはじまり」なのである。

 この「天地創造のはじまり」を基準にした「第七日目」が、現代の世界において使用されているグレゴリオ暦(ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年2月24日に制定された、太陽暦によるカレンダー)による土曜日に一致すると考える説には、それを証明するだけの歴史的・聖書的根拠は存在せず、それはあくまで便宜的なものである。つまり現在一般的に使われているグレゴリオ暦を基準に、土曜日(正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで)を「安息日」とし、それに「天地創造の第七日目」という神学的要素を後付けしているわけである。

 またモーセの律法による「安息日」が、「天地創造の第七日目」に準じているかという確証もない。なぜなら律法によって定められた「安息日」は、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放する働きという枠組みの中で、特に過ぎ越しの日を根拠にしており、その時に定められたカレンダーのはじまりを基準に数えられているからである。

出エジプト12:1-3;14-20

1  主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、 

2  「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。 

3  あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。

14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。

15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。 

16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。 

17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。

18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。

19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。 

20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。 

 モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の中の安息日に関する命令を読むと、「安息日」の根拠として「天地創造の第七日目の安息」が記述されている。

出エジプト20:8-11

8  安息日を覚えて、これを聖とせよ。 

9  六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 

10  七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 

11  主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

出エジプト31:12-17

12 主はまたモーセに言われた、

13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。

16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

 主なる神が六日間のうちに天地創造のわざを全て終え、第七日目に休まれたように、イスラエルの民に属する者も家畜も、その領地に寄留する外国人も、六日間の労働の後、第七日目に休息をとるように命じられている。

 勿論、ここで書かれている根拠は、「休息」という本質的な要素についてであって、「天地創造の第七日目」が「エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民に与えられた新しい暦に基づく安息日」と暦上、一致しているという根拠ではない。

 つまり、「天地創造の第七日目」が、人類の歴史上、正確に七日毎に受け継がれ、モーセの律法によって成文化し、バビロニア捕囚やローマ軍によるエルサレム陥落、離散を通り、太陽暦であるユリウス暦やグレゴリオ暦においても、全くズレることなく、現代の土曜日が「天地創造の第七日目」に対応していると考えるのは、全く根拠のない主張である。

 だから大事なことはその本質、つまり「魂の安息」であり「聖別された神との交わり」そしてそれに伴う「祝福」である。これらの永遠の賜物は、時間や空間に制限されたり、変化したりするものではなく、聖霊によって、御子イエス・キリストのうちに完全に与えられるものである。

マタイ28:10b

見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。

 へブル13:8

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。

ヤコブ1:17

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

ヨハネ4:24

神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。

へブル10:19-22

19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、

20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、

21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、

22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 

 そう、私たちは肉体において地上にいるが、霊においては天の聖所の中で大祭司イエス・キリストに従って、生ける神に仕えているのである。大祭司アロンの子孫が安息日であっても聖所の中で神に仕えていたのは、その予型であり、影である。

 

追記(2017年5月23日)

 安息日を尊守を主張する立場の人々の中には、「私たちが守っているのは『天地創造の第七日目の休息』であって、『律法に基づく安息日』ではない」と主張する人がいる。しかしそれは単なる詭弁である。なぜなら「律法に基づく安息日」自体が、「天地創造の第七日目の休息」を根拠にしていたからである。

出エジプト20:8-11

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

出エジプト31:17

17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

 だから「神が第七日目に休息されたのだから、信仰者も土曜日を安息日としなければいけない」という主張は、本質的にモーセの律法が命じている安息日の戒めと同じであり、上述の「私たちが守っているのは『天地創造の第七日目の休息』であって、『律法に基づく安息日』ではない」という主張は実質に欠けるものである。

安息日に関する考察(1)

 「安息日の教え」に関して、いくつかの記事のコメント欄で意見を書いてきたが、ここでは一つのシリーズ記事として、天地創造の七日目の休息に関する記述からはじめ、律法の中の戒律としての「安息日」を検証し、御子イエス・キリストと安息日問題、そして使徒パウロの見解などに関して考えてみたい。

 

1.天地創造の第七日目の休息の意味

創世記2:1-3

1 こうして天と地と、その万象とが完成した。 

2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 

3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 

 2節の「作業(わざ、仕事、働き)」も3節の「(創造の)わざ」も、同じ原語【מְלָאכָה melâ'kâh】であり、単数形である。そしてその単語は全て「彼の作業」と強調されており、つまり「創造のわざ」が神自身のものであることが示されている。

 主なる神が第七日目に休まれたのは、六日間で天と地とその万象に関わる全ての創造のわざを完成させ、終えたからである。主なる神が天地創造のわざを実行し、完成させたから、神が休まれたのである。ここでは人間が神と共に休んだとも、主なる神が人間に休むように命じたとも書かれていない。これは非常に重要なポイントである。

 さらに主なる神は純粋な霊であり、人間のように疲れることはなく、休息が必要な方ではないからである。

イザヤ40:28

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。 

 つまり七日目の神の安息は、「ご自身のわざの完成」、そして「その完成に対する満足」、そして「祝福」を示していると言える。その後、主なる神が七日に一度休んだという啓示がないのは、神は「定休日」を定めて休む必要がないという面だけではなく、何より神の創造のわざ自体が六日目で完成されていたからである。

 実際、天地創造の第七日目の休息の後、モーセを通してイスラエルの民に律法が与えられるまでの期間で、「安息日」に関する言及は全くなく、また神の七日目の安息に倣ってその時期に生きた信仰者が「安息日」を実践していたという記録もない。

 具体的に言うと、罪を犯し楽園を追放されたアダムとエバからはじまり、セツやエノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、エジプトに移住したヤコブの家族、東方のヨブなどが「安息日」を実践していたという記述はない。彼らも私たち同様に生きるために労働し、肉体的休息を必要とし、さらに生ける神との交わりの時が必要であったにも関わらず、である。

 罪を犯したがゆえ「額に汗してパンを食べる」ことになったアダムに皮の着物(動物の犠牲にしてでも、裸であったアダムとエバを覆うという、神の愛のしるし、さらに御子による贖いの予型である)を備えてくださった主なる神は、彼らに安息日を制定することもできたはずである。

 ノアの時代の大洪水によって「再スタート」した時点で、主なる神は残されたノアの家族に「安息日」を制定することもできたはずである。実際、大洪水に関する記述には、他ではほとんど見当たらないような、非常に詳細な日付が数多く書かれており、「新しいカレンダー」を始めるにこれほど適切なタイミングはなかったはずである。

創世記8:4-5;13-14

4 箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。

5 水はしだいに減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。

13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。

14 第二の月の二十七日、地はかわききった。 

 例えば、「ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日」を基準に、第七日を数えて安息日に定めるとか、ノアの家族が箱舟から出た日から数えるとか、できたはずであるが、実際には主なる神はノアに対してそのような教えを残さなかった。

 また17歳の時、エジプトに奴隷として売られたヨセフは、神の計画によりファラオ王に次ぐ権威を持つ地位まで引き上げられ、エジプト全国を統治する圧倒的な権力(彼は主なる神の啓示に従い、全国の食糧生産と管理の「7プラス7年計画」を制定するほどであった)を持つに至ったのだが、もしそのヨセフが父ヤコブのもとで安息日を幼い時から実践していたとしたら、それをエジプトに制定することもできたはずである。しかもヨセフ自身、13年間も奴隷としての不自由を経験していたのなら、なおさらのことである。しかし聖書にはヨセフが安息日を実践したという記述はない。

 勿論、安息日に関してアダムの堕落から出エジプトの時代に関して聖書に明確に記録されていないからと言って、それを実践していなかった、と100%断定することできないかもしれないが、肯定することはそれ同様にできないはずである。

 むしろ聖書はアダムとエヴァが罪を犯した後、神自身によって完成され、「はなはだ良い」と満足し、祝福し、休息した状態から追い出され、恨みと産みの苦しみ、呪われた地と苦役、そして罪と死が支配する世界、つまり神のいのちと安息から隔離された世界へと追放されたのである。

 それは見方を変えると、創造のわざの段階から神の贖いのわざの段階に入ったことを示している。勿論、神は天地創造の前から御子による贖いの計画を立て、その為に万物を創造したのだが、神が悪や罪や死を創造したのではなく、それらの要素が御使いと人間の堕落によってこの世に入った段階において、神の計画の第二番目の段階に入ったのである。神自らが罪を犯した人間へ近づいていき、「あなたはどこにいるのか」と声をかけ(主なる神は全知の神であるから、「探す」必要などなかった)、御子の贖いの計画を預言し、動物を屠ってその皮で着物を造り人間に着せたのは、その贖いのわざの「はじまりの顕れ」だと言える。

創世記3:8-9;14-15;21

8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 

9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 

14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 

15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 

21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

 そしてその贖いのわざは、御子を通して今も続いており、贖いの完成である、義の住む新しい天と新しい地の創造の時まで継続されるものである。御子が地上において安息日にも人々の魂の救いと安息のために働いておられたのは、そのためである。

ヨハネ5:16-17

16  そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。 

17 そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

 

(2)へ続く

一瞬の光

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昼間でも薄暗い裏道に射し込む一瞬の光。

 

反射光に霞む空気に、思わず立ち止まってしまう「何か」を感じる。

記憶、存在。

 

そして何事もなかったかのように、

角を曲がって喧噪の中に入っていく。

使徒パウロの律法解釈の一例:「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」

Ⅰコリント9:1-18

1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。

2 わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。

3 わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。

4 わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。

5 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。

6 それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。

7 いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

8 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。

9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。

10 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。

11 もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。

12 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。

13 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。

14 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

15 しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。

16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。

17 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。

18 それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。

 使徒パウロは、自分の宣教活動によって建て上げたコリント教会の中で自分の使徒としての立場を厳しく批判していた人々に対して、「弁明」というかたちで、いくつかの問いを投げかけている。

  • わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。

  • わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。

  • それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。

  • いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。

  • ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。

  • また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

 非常に具体的で実践的な状況における三つの問いかけの後、軍隊と農業、そして牧畜という当時の社会における身近な要素を譬えにして、あとの三つの問いかけをしている。

 そしてその六つの問いかけの後、モーセの律法の一節を引用し、自分の弁明が主観的・人間的な考えに基づいたものではなく、神の律法においても論拠を見出せるものであることを示している。

わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。

 これは申命記25:4を引用したものである。もしコリント教会の兄弟姉妹が、エルサレムの教会のようにユダヤ人クリスチャン主体であったら、「律法もまたそのように言っているではないか」とは書かず、最初から律法を引用していただろうが、コリント教会にはユダヤ人もいたものの、大多数はギリシャ人であったので、このような弁明のプロセスを選んだのだろうと思われる。

 これは律法の解釈の上でも、非常に興味深い引用である。というのも、申命記25章は非常に実践的な戒めが列記されており、申命記の節自体をどのように読んでも「福音を宣べ伝えている者たち」について書かれている要素は見い出すことはできないからである。

 当然、神がモーセを通してこの戒めを与えた時、それはまさに農作業を営む者に対して「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と教えていたのだが、御子イエスの恵みによって救いの福音を伝えるようになったパウロにとっては、その戒めは一義的な意味を超えて霊的な意味で解釈し、もはや牛ではなく福音に仕える人間(「耕す者」「穀物をこなす者」)に適用すべき戒律だったのである。

神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。

 しかし使徒パウロは、この戒律を牛ではなく福音に仕える者に適用するにあたって、ただ律法の中の戒律として「~しなさい。それを守らなければ、律法によって呪われ、神の裁きを受けるだろう」という概念を用いてはいないことは注目すべきである。

 むしろその主の定めを認識しながらも、彼自身、その権利を利用しなかったことが明記されている。

それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。

 つまり戒律主義的に、「主イエス・キリストは、申命記25:4に書いてある通り、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを定めている。もしあなた方がそれを守ったら祝福を受けるだろう。しかしもしそれを守らなかったら、神の定めを背くことになり、あなた方は裁きを受けるだろう」とは語っていないのである。

 むしろ福音伝道者としての誇り、つまり「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないこと」を根拠に、その主の定めを自分自身に適用することを拒否しているのである。

 勿論、それは使徒パウロがその主の定めを軽視していたことを意味しない。なぜなら同じ定めについて、同じ福音伝道者であったテモテに対して書き送っているからである。

Ⅰテモテ5:17-18

17 よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。

18 聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。 

  これは「主の定め」というものがあって、兄弟姉妹が聖霊の促しと導きによって、戒律に従うためというよりも、自主的に喜びをもって福音宣教の参加することを望んでいることを示していると言える。

 それは、同じコリント教会に宛てた「施しの教え」を読むことでも読み取れることである。

Ⅱコリント9:6-15

6 わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。

7 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。

8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

9 「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。

10 種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。

11 こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。

12 なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補えだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。

13 すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて、彼らは神に栄光を帰し、

14 そして、あなたがたに賜わったきわめて豊かな神の恵みのゆえに、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのである。

15 言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。 

  現代の福音主義の兆候を考えると、これらの言葉の中に「什一献金制度」の適用によくみられるような戒律的な強要や、信徒を見下す傲慢な「特権階級的意識」が皆無であることは、特筆すべきことではないだろうかと思う。

バラクもエフタもいる

へブル11:32-34

32 このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

33 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

34 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 

 『第一コリント』の13章が「愛の章」として知られているように、『へブルびとへの手紙』の11章は「信仰の章」として、信仰の定義から始まり、旧約聖書の中に記されている「信仰に生きた神の証人たち」の名を数多くの挙げている。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデなどは非常に知られている名前であり、聖書を読んだことがない方でも、一度はどこかで聞いたことがあるかもしれないが、バラクとかエフタという名前を読んで、どのような人物であるか即座に説明できる人は、聖書を長年読んでいる信仰者であっても、それほど多くはいないのではないだろうか。

 バラクもエフタも、イスラエルの民が約束の地を占領し、安住し始めてからしばらく経った時代の人物で、『士師記』の中に登場する。バラクは士師記の4章と5章に、エフタは11章と12章に記されているので、実際に聖書で確認していただけるが、この二人の人生は、「信仰に生きた勇者」と定義するにはちょっと躊躇してしまうようなものではないだろうか。

 いや、もし神の霊感によらず、私たちの倫理的・知的基準で『へブルびとへの手紙』の11章を書いていたとしたら、決してバラクやエフタの名前をリストの中には入れなかったのではないかと思う。サムソンの名など、頭の片隅にも浮かばなかっただろう。おそらく彼らの名前を書く代わりに、「預言者たち」の具体的な名前、例えばエレミヤやハバクク(新約聖書において「義人は信仰によって生きる」というハバククの言葉が何度引用されているか確認してみてほしい)の名前を書き記したことであろう。

 同じ「とまどい」は以下の聖句についても言えるのではないだろうか。

Ⅱペテロ2:6-7

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。 

 私たちが筆者の立場で『創世記』に書き記されているロトの人物像と生涯を解釈していたら、果たして「義人」という表現をロトに適用しただろうか。

 これらのことは、私たちが聖書を読み、それを解釈しようとするとき、恵みの霊、つまり聖霊によってのみ真意を読み取ることができるということを教示している。なぜなら、私たちの理知的判断や倫理的基準は、たとえそれらが学問的に正確で倫理的に崇高であっても、神の思いと一致しているとは限らないからである。

 その最も顕著な例は、聖書全体の中心的メッセージである「十字架の言」であり、「隠された奥義としての神の知恵」であるキリストである。

Ⅰコリント1:18-25

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

Ⅰコリント2:6-13

6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。

10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。