an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

福音宣教の「舵取り」

使徒9:17-30

17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、

19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、

20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。

21 これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。

22 しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。

23 相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。

24 ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。

25 そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。

26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

27 ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。

28 それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、

29 ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。

30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。

使徒13:44-47

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。

45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。

46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。

47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。

使徒18:4-6

4 パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

5 シラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。

6 しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」。

使徒28:23-28

23 そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。

24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。

25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。

26 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。

27 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。

 パウロが回心と同時に受けるようになった、ユダヤ人の同胞から憎しみや嫉妬、殺意、暴言、不信などが、結果的にキリストの証人となったパウロの使命のための「舵取り」の機能を果たしていたことを知るのは、とても重要だと思う。

 教会を迫害していた者がキリストの恵みによって救われたという自覚があったパウロは、同胞の救いを心から切望していた分、その同胞が示していた否定的・攻撃的反応は、心を深く突き刺すようなものだったのではないだろうか。

 私たちの信仰生活において、回心直後のパウロの行動のように、知識や知恵、経験が伴わない熱意が、必要以上に周囲を刺激してしまうことはよくあると思う。また聖霊の導きに遜る成熟した心をもってしても、やはり周囲の否定的・侮辱的反応は避けることのできないものだろう。

 いずれにせよ、どのような状況においても、御子イエス・キリストの主権によって神の永遠の計画が確実に成就していると認める時、現実に傷ついている私たちの心も、不思議な平安によって包まれ、深いところから湧き出てくる復活の力によって、次の一歩を踏み出すことができるのである。