天からの声(2)「これに聞け」
マタイ17:1-6
1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
「これに聞け」。この天からの声は、父なる神によるもので、「これ」とは勿論、御子イエスのことを指している。
目に見えない、人間の言語表現手段では表現しきれない、霊なる全知全能の父なる神が、人間、しかも恐怖のあまり何が起きていたか理解していなかった人間たち(マルコ9:6参照)に向かって、彼らが認識しうる言葉で話しかけている。しかもご自身が語り続けることもできたはずなのに、「わたしに聞け」ではなく「御子に聞け」と語りかけているのである。
しかし御子自身も、父親から離れて好き勝手していた放蕩息子のように、地上において適当に自分の言いたいことを主張していたのでは決してなかった。
ヨハネ12:49-50
49 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
50 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
また御子の復活の後、遣わされた聖霊も、御子の語ることを聞き、それを人々に語る務めをもっていることが啓示されている。
ヨハネ16:13-15
13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
御子は父なる神の語ることを聞き、それを地上で語った。それゆえ、天なる父は御子に対する絶対的信頼のもとに、天から「御子のことを聞け」と命じた。そして御子の復活後に信じる者の心に遣わされた聖霊も、父なる神の右で栄光を受けた御子から聞き、それを語ることが約束されている。
この三位一体の神における「聞く」という姿勢を見ると、私達にとって「御子に聞く」「御子のことを聞く」という姿勢が如何に重要で本質的であるかが、はっきりと理解できる。
ローマ10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
御子の足元で御言葉を聞いていたマリアのように、また御子だけが永遠のいのちの言葉を持っていると宣言したペテロのように、祈りの中で御子の声を待ち望もう。
ルカ10:38-42
38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
ヨハネ6:68-69
68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
(3)へ続く