天からの声(3)聞き違い
ヨハネ12:27-29
27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
確かに聖霊は福音書記者ヨハネに霊感を与え、天からの声がどのような内容であったかを記録するよう導いた。ヨハネはヤコブやペテロと共に山上の変容の時にも天からの声を聞いた経験があったから、もしかするとその声を認識しやすかったのかもしれない。
しかし同じ場所にいた群衆は、音は聴くことができたようだが、その内容を全く理解することができなかった。
すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
音としては何か超自然的なものであると認識できても、はっきりとしたメッセージを理解できない。これは、罪によって生ける神との霊的交わりを失い、その感受性が著しく鈍化してしまった人間の性質を示している。
ローマ1:18-20
18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
全ての被造物、つまり宇宙やその中にある天体、そして地球とその上にある全てのものを観察することによって、神の永遠の力と神性は明らかに認められるはずだが、人間はそれを認めようとしない、と言っているのである。
詩篇記者ダビデは、その被造物の「神からの声なき使信」について書き残している。
詩篇19:1-4b
1 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
4b その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
しかし冒頭に引用したエピソードでは、神自身が介入した超自然的なメッセージさえも、群衆は理解しなかった。それは意思的に聞こうとしない選択ではなかったかもしれないが、神からのメッセージを受け取らない、という意味では同じことであろう。
そして群衆の聞き違いの悲劇の際たるものは、御子イエスが十字架の上で叫んだ言葉を人々が全く理解しなかったエピソードであろう。
マタイ27:46-47
46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
これは目で見ることができない神の「天からの声」ではなかった。その神が人となり、肉体を持って人々の間に顕れ、その「神ー人」なるイエスが群衆のすぐ目の前で十字架に架けられ、メシアの受難の預言成就として、人々に読み知られていた詩篇22篇の冒頭句を引用して大声で叫んだのに、彼らはそれを完全に聞き違えたのである。
すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、
「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
このような聖書のエピソードを読むと、現在私達に聖書が与えられ、それを個人的に、または教会の交わりの中で読むとき、聖霊が語りかけてくださることが約束されているのは、計り知れない神の憐みと愛の証明だと思う。
だからこそ、その聖書を通して主なる神が御声を聞かせてくださる時、私達は十分に気を付けなければならないのだろう。
へブル3:12-19
12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
Heb 3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
4:1-2
1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
恵みの時代にあって、主なる神は誰も到達することができない高みから、高尚で難解な神学書を地に投げ落としているのではない。人間の言葉で、しかも世界中の各地の言葉に翻訳された言葉で書かれた聖書を通して、聖霊の導きによって、低きに悩み苦しむ私達の心の場所まで来て、語りかけてくださるのである。