ポンテオ・ピラトの面前で立派な証しをなさったキリスト・イエス
Ⅰテモテ6:11-16
11 しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。
12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
13 わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。
14 わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。
15 時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。
16 神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。
「わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる」。この箇所は以前から読んでいてどうも腑に落ちない印象があった。「すべてのものを生かして下さる神の御前」というのは、すべてのものを創造し、すべての命を支えておられる偉大なる神ということで納得いくのだが、「ポンテオ・ピラトの面前で立派な証しをなさったキリスト・イエスの御前」(「ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前」新改訳)という表現は、どうも主イエス・キリストの栄光を表現するのに、何かとても制限的な印象があったからである。
特に使徒パウロが同じテモテに書いた第二の手紙の中で使っている表現と比較すると、「ポンテオ・ピラトの面前で立派な証をなさったキリスト・イエス」と、「生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエス」とでは印象の差があることは理解していただけると思う。
Ⅱテモテ4:1
神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
「生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエス」は、絶対的主権を持った裁き主としてのキリストであるが、主イエスがローマ総督ポンテオ・ピラトの前に立った時、彼は「救い主とか王だと呼ばれていたが、結局、自分の民や弟子たちからも見捨てられた一人の男」として、覇権者としてのローマ帝国を代表する権力者の前に立っていたのである。人間的観点からすれば、二人の男の差は歴然であった。片や偽メシアとして鞭打たれ、血と唾で汚れた傷だらけの男であり、もう一方は真紅のマントに包まれた地上の権力者である。
しかし、そのような状況においても、主イエス・キリストは目の前にいる男を侮蔑したり、罵ったりはしなかったし、また自己保身のために媚を売ることもなかった。
『ヨハネによる福音書』は、「ポンテオ・ピラトの面前で立派な証をなさったキリスト・イエス」についての生々しい記述がある。
ヨハネ18:33-40
33 さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。
34 イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。
35 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。
36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。
37 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。
38 ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない。
39 過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。
40 すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。
ヨハネ19:1-16
1 そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。
2 兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、
3 それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。
4 するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」。
5 イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。
6 祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」。
7 ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」。
8 ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ、
9 もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。
10 そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。
11 イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
12 これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。
13 ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた。
14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
16 そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
神の御子イエス・キリストは、「生きている者と死んだ者とを裁く絶対的権力者」としてピラトの前でその栄光と力を顕し、ピラトを一瞬で裁くこともできた。しかし御子は、もしピラトが望んだのなら真理を知ることができるよう、実に冷静に証をした。媚を売ることなく、真の権威者として。
「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。
「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない」。
間違いなく使徒パウロはテモテに「ポンテオ・ピラトの面前で立派な証をなさったキリスト・イエス」という表現を使ったのは、パウロ自身、福音の故に囚われの身となり、ローマ皇帝カイザルの前で証したからであろう。ローマ市民権を持っていたとはいえ、天幕造りの職人であったパウロは、当時の最高権力者であったカイザルの前では何者でもなかった。だからこそパウロにとって、主イエス・キリストがローマ総督ピラトの前で真理の証しをしたことは、内なる力となっていたはずである。そして同じ理由で、来るべき迫害の時代に備え、使徒パウロは同労者テモテを励まそうとしたのだろう。
私たち信仰者は、主イエス・キリストの絶大な恵みによって、霊的判断力を与えられた。それによって、私たちは神の視点からこの世を「裁く」知識が与えられている。
Ⅰコリント2:14-16
14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
Ⅰコリント6:2-3
2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。
勿論、信仰者はこの世に対して十字架につけられ死んでいるので、この世において何者でもない。そして私たちが恵みによって召されたのは、隣人を裁くためでなく、御言葉を通してこの世に真理を証するためである。この世の底辺にもがき苦しむ人々に対して高慢になって見下すことなく、この世の権力者に対して媚を売ることもなく、御言葉を曲げず、静かに救いの真理を語るためである。
Ⅱコリント2:17
しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
Ⅱコリント4:1-2
1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
2 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
Ⅰテサロニケ2:3-5
3 いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。
4 かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。
5 わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。