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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

福音書は「贖罪」を語っていないのか(1)

  このブログに寄せられたコメントだけでなく、ブログ村などにおいても、「福音書には【贖罪】という概念がなく、イエスはそれを教えていない。贖罪論を取り入れたのはパウロである。」という説を説く人々がいる。そのような観点から、本来聖書には存在しない「イエス教」と「パウロ教」という区別をする解釈である。プロテスタントの自由主義神学において説かれていた解釈であり、すでに多くの論証が行われているが、今回も聖書の記述に基づいて、その解釈が聖書的根拠をもつ主張なのか、以下の主要な観点において検証してみたい。

  1. 神殿礼拝の要求:神殿礼拝に関する律法は、礼拝者に何を要求していたか。神殿礼拝の本質とは何であったか。
  2. 御子イエスの「メシア」としての自意識:特に自分自身について「人の子」と呼んでいたとき、どのような役割を意識していたのか。
  3. 聖霊を受ける前の弟子たちの無理解
  4. 洗礼者ヨハネの証言
  5. 使徒パウロの証言
  6. 使徒ペテロの証言
  7. 使徒ヨハネの証言

1.神殿礼拝の要求:イエス・キリストが地上において福音宣教した時代には、まだエルサレムの神殿が存在しており、ユダヤ人たちはモーセの律法に従って神の宮で礼拝をささげていた。勿論、御子イエス・キリストも彼の弟子たちもそれに参加していた。御子イエスの福音宣教は、ユダヤ教という文脈の中で行われたのであるから当然である。

 その律法の中で定められていた神殿儀式の中で、最も重要なものの一つであったのが、「贖罪の日」である。(レビ記16章)

出エジプト30:10

アロンは年に一度その角に血をつけてあがないをしなければならない。すなわち、あがないの罪祭の血をもって代々にわたり、年に一度これがために、あがないをしなければならない。これは主に最も聖なるものである」。

レビ記16:33-34

33 彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。

34 これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度あがないをするものである」。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった。

レビ記23:27-28

27 「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。

28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。

 大祭司は年に一度、動物のいけにえの血を携えて至聖所に入り、神殿そのものや自分自身を含めた祭司のため、そして全ての民のために罪の贖いをしなければならなかった。これは「主に最も聖なるもの」であり、イスラエルの民が聖なる神に仕えることができるための絶対条件だったのである。

 新約聖書の『へブル人への手紙』は、エルサレムの神殿が西暦70年にローマ軍の攻撃によって完全に破壊される前に書き記された手紙だが、その中で律法による贖罪の本質を啓示している。

へブル9:1-12

1 さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。

2 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。

3 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。

4 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、

5 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。

6 これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、

7 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。

8 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。

9 この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない

10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。

11 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、

12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 

へブル10:1-4

1 いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである

2 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか

3 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。

4 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。

 もし人間の良心が、モーセの律法が命じている通り、動物にいけにえによって清めることができていたら、御子イエスは受肉する理由もなかったし、十字架の上で全人類の罪のために死ぬ理由もなかったのである。しかし現実には、律法による贖罪は人間の罪に対して無力だったのである。この大前提の上に、イエス・キリストのすべての啓示がある。ゆえに、この贖罪の大前提を否定することは、御子の十字架のわざだけでなく、受肉さえも否定することにつながるのである。

 

2.御子イエスの「メシア」としての自意識:上記のような律法の無力さを前提に、御子イエスは受肉した。そして地上の宣教において、ご自身のことを「人の子」と啓示している。この「人の子」は、イエスにおいては、「被造物としての弱さをもった人間」という意味ではなく、旧約聖書の中の預言されていたメシアの称号のひとつである。特に御子イエスが、ダニエル書の預言を引用していることによって、それが理解できる。

ダニエル7:13-14

13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。

14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

マタイ26:63-65

63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。

64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

65 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。 

 大祭司は、イエスが「人の子が天の雲に乗ってくる」というダニエル書の預言を引用している意味を完璧に理解したからこそ、イエスを冒涜の罪に定めたのである。「ただのガリラヤの大工の息子のくせに、自分をメシアと名乗るとは許しがたい冒涜だ!」と断罪したのである。

 そしてその「人の子」たるメシアの預言には、「苦難」「犠牲の死」も含まれていた。

ダニエル9:26a

その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。 

 イザヤ52:13-53章には、この「メシアの苦難」「犠牲の死」が信じられないほど詳細に預言されている。一部だけを引用するが、是非、直接章全体を読んでいただきたい。これはまるでイエス・キリストの死後に書き記された記録のように思えるが、実際は彼が地上に来る約750年前に預言されたものである。

イザヤ53:5-8

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

 「民の罪の身代わりの犠牲の死」というメシアの死の本質が、誤解しようがないような形で啓示されている。

 これらの旧約聖書のメシアに関する預言が成就する形で、御子イエスはご自身を啓示された。

マルコ10:45

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 

 

3.聖霊を受ける前の弟子たちの無理解:しかし、このメシアの苦難という要素こそ、弟子たちが聖霊によって啓示を与えられるまで、全く理解することも受け入れることもできなかったことなのである。

マタイ16:21-23

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 

23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

マルコ9:31-32

31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。

32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。

ルカ9:44-45

44 「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。

45 しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。

ルカ18:31-34

31 イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。

32 人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、

33 また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。

34 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。

ルカ24:18-27

18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。

19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、

20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。

21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、

23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。

24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

 イエス・キリストがこれだけ明確に「メシアの苦難の死」について語っていたのに弟子たちは理解できず、理解できないことを質問することさえ恐れるほどであった。イエスが贖罪の死について語っていなかったのでは断じてない。まだ聖霊を受けていなかった弟子たちが、「愚かで心のにぶいため」「神のことを思わないで、人のことを思っていたため」に、それを受け入れて信じられる状態ではなかったのである。

 実際、主イエスはそのことについても、最後の晩餐において明確に語っている。

ヨハネ16:12-13

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 

 それゆえ、主イエス・キリストが聖霊を通して使徒パウロに伝えたと同じ程度の贖罪の啓示を地上の宣教においてしなかったのは、御子の福音とパウロの福音の内容が異なるからではなく、御子が語っていたことを弟子たちが理解していないかったからで、より深遠な奥義を啓示したくてもそれを受ける器が備わっていなかったからである。

 

(2)へ続く