へブル12:1-2(新改訳)
1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
2節aにおいて、他の和訳の代表的なものは、以下のように訳出している。
(文語)信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。
(口語)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
「創始者」「導師」「導き手」と和訳されている原語【αρχηγον archēgon】は、新約聖書の中で他に以下の三箇所で使われている。
使徒3:15
いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。
使徒5:31
そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。
へブル2:10
なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。
同じ単語が旧約聖書のLXX訳では三回使われている。
民数13:2
「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。
民数14:4
彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。
エレミヤ3:4
今あなたは、わたしを呼んで言ったではないか、『わが父よ、あなたはわたしの若い時の友です。
エレミヤ3:4において、「夫」(新共同訳)「連れ合い」(新改訳)「交友(とも)」(文語)などと訳出されている。
これらの様々な訳のバリエーションを考慮しつつ、文脈が「私たちの前に置かれている競走」(12:1)という霊的な道程について言及していること、また【αρχηγον archēgon】と【τελειωτην teleiōtēn】が一つの冠詞をもつことから、「創始者であり、完成者である」や「導き手であり、またその完成者である」という訳は、信仰生活の出発点から到達点まで、「信仰者の信仰を創り出し、導き、完成をもたらす」というニュアンスが伝わるものではないだろうか。ちなみにイタリア語のNRVは「fissando lo sguardo su Gesù, colui che crea la fede e la rende perfetta.」(信仰を創造し、完全なものとする方)と訳出している。
まさに主なる神がご自身の計画によって選び、奴隷生活から贖い出したイスラエルの民に対して、最後まで変わらぬ真実の愛を誓ったように、御子イエスは聖霊の働きを通して、救いを求める魂の内に信仰を賜物として与え、それを導き、完成に至らす方である。
イザヤ46:3-4
3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
使徒パウロの言葉も、上述の霊的道程における神の働きについて啓示している。
ピリピ1:6(新改訳)
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。