an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

第一コリント14章における女性に対する教えについて

 昨日の記事万人救済の福音の検証(6)「すでに救われている」? - an east windowのコメント欄で書いた経緯で、第1コリント14章について言及があったので、私の検証を共有してみたい。

 まず『第1コリントの手紙』は、使徒パウロが自ら伝道開拓したコリントの町の教会の中で、分裂やスキャンダル、そして礼拝における混乱があることをクロエの家の人々から報告を受け(Ⅰコリント1:11)、教会がキリストの愛に基づいた秩序と調和を取り戻すことができるように書き送られた手紙である。

 特に12章から14章までの一連の記述は、13章の「神の愛」を核とした、共同体における秩序ある霊の賜物の顕現を推奨している。その中で、14章は礼拝における預言と異言の賜物について言及しているが、コメント欄において問題提起した方は、33節から35節の婦人に関する記述が、『「とりあえず入れておけば、パウロの命令になって女を黙らせられる」 と考えた誰かが挿入・加筆したものでないか」という意見を寄せている。

 実際に聖書の本文を見てみよう。

Ⅰコリント14:31-40

31 あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。

32 かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。

33 神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、

34 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。

35 もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

36 それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。

37 もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。

38 もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。

39 わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。

40 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。  

 まず第一に、使徒パウロはこの手紙をコリントの教会の責任者に対して書いたのではなく、教会全体に宛てて書いている(Ⅰコリント1:2)。当然、その共同体には女性信徒も含まれていた。7章で語られている結婚に関するテーマにおける、既婚女性への呼びかけ(16節)などや、11章の祈りのベールに関する命令などからも十分理解できる。

 故に、14章31節の「あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができる」の「あなたがた」「みんな」「ひとり残らず」という表現は、当然、女性も含まれているわけである。

 実際、上記の11章の祈りのベールに関する記述によって、女性信徒は男性信徒と同じように、礼拝の中で自由に祈りを捧げ、預言していたことが前提として記されている。

Ⅰコリント11:4-5

4 祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。

5 祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。 

  だから、使徒パウロが14章において、

12 だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。

 と勧めるとき、男女の性別に関係なく、すべての信徒たちが霊の賜物を豊かに受けるように励むべきだと勧めていることがわかるのである。

 だがその霊の賜物の豊かな顕れの探究は、平和の神の霊にふさわしく、秩序をもったものでなくてはならなかった。コリントの教会では、その点において大きな欠落があったのである。

 このようなコリントの教会の文脈における使徒パウロの目的を考慮すれば、

  • 婦人たちは教会では黙っていなければならない。
  • 彼らは語ることが許されていない。
  • だから、律法も命じているように、服従すべきである。
  • もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。
  • 教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

 という記述は決して文脈から外れたものではない。つまり「黙っていなければならない」「語ることが許されていない」と禁止されている行為は、霊の賜物としての祈りや預言、異言の解き明かしそのものではなく、教会における礼拝の秩序と調和を乱す行為に対しての禁止であることがわかるのである。

 それではその秩序を乱す行為とは何だったのだろうか。それは霊の賜物の顕現、特に預言や異言の時に、女性信徒らが自分たちが座っている席のところで、無秩序に解説(教える行為)や質問をしていた状況のことを指している。だからこそ使徒パウロは、異言の解き明かしや預言に関する明確なルールを提示しているのである。

Ⅰコリント14:27-30

27 もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。

28 もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。

29 預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。

30 しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。

 この秩序の尊重において、「沈黙」が重要な要素とみなされていることに注目してほしい。

  • もし解く者がいない時には、教会では黙っていて
  • ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。(つまり二人か三人かが預言を語り、他の人々は黙って吟味しなさい、という意味である。)
  • 席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい

 だから「女性の沈黙に関する規則」は、同じ文脈の中で語っているこの「秩序の尊重のための沈黙の教え」(特に聖霊の賜物の顕現における秩序の尊重のための沈黙)という枠組みの中で解釈すべきである。特に女性特有の性質、また教会の中で与えられていた女性特有の役割を考慮するとき、使徒パウロが女性信徒を対象にした教えを挿入していたことは何の不思議もないだろう。

 結論を言えば、この女性信徒に対する教えは、文脈の内容と一貫するものであり、使徒パウロ以外の第三者による加筆であると断定しうる根拠は存在しないし、ましてや「忌むべき詐欺行為」と断罪しうる正当性はどこにもない。

 また『第一テモテの手紙』2章の教えとの一貫性を根拠に、この部分が二世紀の加筆であるという意見は、「『第一テモテの手紙』が使徒パウロによって書かれたものでない」という一つの意見を前提とする主張である。

Ⅰテモテ2:11-12

11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。

12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。

 しかしその前提を誤りだとする神学的立場にとっては、その一貫性はむしろ、使徒パウロの教えが、時代や状況によって変化しない神の真理から来るものであることを証明するものである。

 14章の女性に対するこの教えには、男性・女性問わず全ての人間が共通してもつ脆弱な性質に対する、聖なる神の絶対的な視点が根底にあると思う。私たちの生まれながらの性質は、神による権威を否定し、彼の秩序や調和を疎んじ、彼が引いた境界線を越えようとする。そのような弱さをもつ人間が、立ち止まり、いるべき場所に戻り、与えられた役割をなすことができるための、神が備えてくださった「標識」と言えるのではないだろうか。

ヤコブ3:1-2

1 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。

2 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 

エペソ4:29-30

29 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。

30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。